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社会・全般
木目込(きめこ)み人形/やさしさを子どもたちに
日本古来の手工芸「木目込み人形」の五月人形
風さやか五月、端午の節句。日本古来の手工芸「木目込み人形」の五月人形が床の間を飾るのももうすぐ。正月の羽子板、三月三日のひな人形など、季節の折々に布を使って作る人形は、端正な中にもやさしさがこもる。
こうした人形作りを楽しむ仲間、三十年の経歴をもつ教授大山八重さん(八五)を中心に教師免除をもつ五人の弟子たち。講座などで指導した人たちは五十人以上にものぼる。「お人形はもともと子どもたちの健康を祈って作られたもの。今の子どもたちにそのやさしさを伝えたい」と、大山さんは言う。
復帰後、生活が豊かになっていく中で、宮古でもひな祭りや子どもの日が盛んになった。もともと、ひな祭りは平安時代中期に無病息災を願う払いの行事として行われた。払いの行事が、今のような華やかな女子の祭りとなるのは、戦国の世が終わり、世の中が平和になった江戸時代からといわれる。
また、端午の節句は、奈良時代から行われた古い行事で、五月の初めの午(・うま・)の日を意味した。それがいつの間にか、五月五日に固定された。平安時代までは、災厄を避けるための行事だったが、江戸時代になり、武家社会に入ると、重要な日となり、盛大に祝われるようになった。民間でもこうした武士の気風をまねて、男の子が生まれると、厚紙で作った大きな作り物のかぶとを屋外に飾ったりした。
明治の新政府は、従来の節句行事を廃止して、新しい祝祭日を定めたが、長い間、人々の生活に根を下ろした行事は簡単になくなるものではなく、特に子どもに関する「ひな祭り」や「端午の節句」「七夕」などは、いまも民間行事として盛んに行われている。大山さんは「いつの世でも、子どもの誕生は、それなりに大きな喜びとして、何か残したいという親心だろう」と話す。
弟子の山里盛子さんは「十年前、大山先生の個展を観て感動した。こんな事ができるなんて、すぐに先生の教室に駆け込んだ」と話し、上地洋子さんも「私も、十年前、先生を紹介した新聞を見て心動かされ入門した」。木目込み人形に魅了された人たちは、季節感やそのやさしさを子どもたちに伝えたいと、いまに引き継がれている。
22年前、母校に二段雛贈るー毎年ひな祭りに花欠かさず
百華木目込み人形教授 大山八重さん
長年、木目込み人形の指導にあたってきた大山八重さんは、二十二年前母校の市立北小学校に二段雛を贈った。それから毎年、ひな祭りのころになるとひな人形に添える盛り花を贈り続けたのだった。同校では毎年、三月になると校舎の入口フロアに大山さんのひな人形を飾ることが習慣となっている。
先月のひな祭りは、一年生が大山さんを招き、長年の厚意に対する感謝の会が開かれた。大山さんは「子どもたちと一緒に歌ったり、帰りにはたくさんのお手紙もいただいて嬉しかった。何よりみんながひな人形のように健康でやさしい子に育ってほしい」と願いを込める。
盛り花のリレーを証すものとして、俳人だった夫春明さんの追悼句文集に「母校なり妻手作りの二段雛」(一九八六年)が掲載されている。