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社会・全般
忘れないで!/伊志嶺節子
ペン遊ペン楽2010.10.28
忘れないで!/伊志嶺節子
ミーニシとともに秋の使者サシバが大空を旋回し、自然の雄大さに圧倒される風景が今年も宮古島で展開されているに違いない。そんな自然の美しさのもとでも、現代世界は政治的にも社会的にも経済的にも暗い状況にあり、時として人々の心を不安と焦燥感に陥れる。
先日、51年前に起きた宮森ジェット機墜落事故のことを、当時2年生の平良嘉男氏(現・西原中学校校長)から聞く機会を得た。事故のことは知ってはいたものの、すでに私の脳裏から忘れ去られていた。しかし、映し出された当時の様子と氏の語りは現実的なものとして一気に目の前に突きつけられる衝動的なものだった。1959年6月30日、沖縄は暑い暑い夏。ミルク給食の楽しい時間。突然大音響とともに米軍のジェット機が墜落し、まわりは火の海。地上まれに見る阿鼻叫喚の学校と化してしまった。児童11名、大人7名(事故の後遺症で1名)の尊い命が失われ、児童156名、大人54名が重軽傷を負ったこの惨事を風化させてはいけない、後世の人に伝えていかなければと現在平良氏は、語り部として全国で講演をなされているという。そして11月にはフランスで。
その話を聞いた日から私は子供たちの状況があれこれ想像され言いようもない思いにとらわれた。そして、宮森小学校をこの目で見たいと思うようになり、事故当時5年生だった友人と一緒に墜落した現場を訪ねることにした。閑静な住宅地の隣に位置する学校は、痛ましい事故が起こったというその片鱗すらもとどめず、きれいな校舎が建ち並び、樹々が風を呼び、広い運動場では子供たちが野球を楽しんでいた。しばらくして友人は、あの日教頭先生が血だらけの女の子を抱きかかえ走っている姿が、今でも鮮明に残っていると初めて語り出した。何と私は友人があの悲惨で忘れることができない体験をしたというのに長い年月聞こうともせず気にも留めないでいたのだ。悔いが襲ってくる。
人間は、忘れないでおこうと思いつつも日々の生活に埋没し大切なそれも歴史的な出来事を忘れてしまう。事件や事故はあまりにも日常とかけ離れ、自分とあまり関係ないと思ってしまうから。しかし、忘れないでおこうと思っただけでは何も変わらない。51年たった今でも広大な基地がある。戦のために日々訓練している人間がいる。軍用機が轟音をたて学校の上空を飛び、子供たちを危険にさらしている。これが私の住んでいる沖縄の一つの現実。ある人の言葉を思い出す。「Do Something!」。そう、私にできることは? その糸口を教えてくれるのはやはり周囲の心ある人たちの思い、言葉、行動。そして最近起こったチリの鉱山落盤事故に注がれた世界の知恵と希望(エスペランサ)と愛。
日差しが柔らかく射す中庭には、武者小路実篤氏の描いた「仲よし地蔵」の慰霊碑と、その傍らに亡くなった子供たち、大人の刻銘があり、そして碑の後ろには巣立っていった子供たちの手形が平和の祈りのように並んでいた。
「忘れないでぼくらのことを」さらさらと風の呼び来る声なきこえが
子供たちの野球はまだ続いている。その歓声を聞きながら友人とひかり満つ学校をあとにした。
※証言集『沖縄の空の下で①』(命と平和の語り部 石川・宮森630会編)が今年9月に発行された。
(日本歌人クラブ会員)