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社会・全般
東日本大震災(行雲流水)
2011年3月11日14時46分、国内観測史上最大のM9・0の巨大地震が三陸沖を震源に発生。それに伴う悪魔のような黒い津波は船や車、住宅を押しつぶし、押し流し、のみ込み、多くの人命を奪い去った
▼住みなれた街が一瞬にして消えてしまった心細さ。肉親の安否を確かめる通信手段も失われた。住む家もなく、寒さの中で水も食料もない不安。その上、火災や度重なる余震、地震が起きても安全だとされていた原発の事故の恐怖に住民はさいなまれた
▼「災害は忘れた頃にやってくる」と言われるが、この震災は想定を超えるひどいものであった。岩手県田老町(現宮古市)は明治三陸沖地震の際、人口の4割が死亡、家屋もほとんどが全壊した。その後、高さ㍍、長さ2433㍍の防波堤を築き、「津波防災の町宣言」をしていたが、今度の津波を止めることができず、壊滅的な災害を受けた
▼当地では240年前の1771(明和8)年、宮古・八重山を襲った「明和の大津波」が語り継がれている。約1万2000人が死亡、うち宮古では2548人が死亡した。石垣島では8村が流出、宮古では、海岸近くの友利、砂川、新里、宮国などの元島(むとぅずま)を失い、高台へ移動、新たな集落を築いた
▼八重山ではこの津波や凶作などの影響で島は衰退、明治初期まで人口は減り続けた(牧野清、他)
▼時代が違う。国民は力を結集してこの難局を克服、被災者の生活の安定を助け、地域は復興を成し遂げるに違いない。