「人とのつながり強く感じた」/被災地、宮城県登米市出身の菅浪さん
実家に帰省中、被害に
地震と津波で大きな被害を受けた宮城県の出身で、宮古島市に住む男性が9日、本紙の取材の応じ、東日本大地震の様子などを語った。男性は地震発生当時、実家がある同県登米市に里帰り中だった。「被害状況は言葉には言い表せないが、いつの日かきっと復興できると信じている」と話す。避難所生活も経験し、「家族の大切さ、無い物を分け合うなど人と人とのつながりの深さを強く感じた」
市東仲宗根に住む菅浪正憲さん(60)がその人。菅浪さんは定年退職を機に昨年12月下旬、故郷を訪れた。一人で住む母多喜子さん(84)と正月をはさんでしばらくの間、のんびりと過ごす計画だった。
地震があった3月11日は、3日後に控えた帰島の準備中。「とても立っていられる状況ではなく、母は私の足にしがみついていた」。強い揺れはなかなか治まらず「2、3分だったようだが、5分以上に感じた」
実家は、津波の被害が大きかった南三陸町から約20㌔離れており倒壊などの被害は免れたが、家の中はめちゃめちゃになった。電気や水道も止まり、菅浪さんは多喜子さんと母校である石森小学校体育館で避難生活を送ることになった。
避難所では食事の心配はなかったが、夜は気温が零度以下に冷え込むため高齢の多喜子さんの体調が気になった。
情報も少なく、被害状況が分からないため不安は募るばかり。ラジオを聞きながら、親戚や友人たちの安否を気遣ったという。
「電話が通じないから、宮古島にいる家族はどんなに心配したことか…」。地震発生の翌日、宮古島に住む長男(32)と電話が通じ、自分の無事を知らせることができた。「家族が元気なことが何より幸福なことだと実感した。周囲には、家族を探して避難所を歩き回っている人たちが大勢いましたから」
菅浪さんは3月27日、実家の隣町南三陸町に車で行った。海が近くにあり、子どものころは両親によく連れられて行った思い出の場所だ。「漁村で活気があったが、津波の後は何も無かった。あるのはがれきの山だけ。言葉も出なかった」
菅浪さんは4月6日に帰島した。8日は孫の小学校の入学式。その夜は妻、長男、長女、孫たちと一緒になって祝った。友人や知人たちにも無事に帰って来られたことを報告した。
「大震災を通して家族や周囲の人たちのありがたさをつくづくと感じた。助け合って生きていくことの大切さも実感した」と言う。
「故郷の復興は何十年掛かるか分からないが、もう一度行くときは少しでも良いから街が復興していて人々の笑顔が見られればと思う」