福島から避難生活2年半/伊東治好さん
木造大工職人の本領発揮/弟子の育成に強い意欲
伊東治好さん(47)は宮古島に来る前、原発事故を起こした福島第一原子力発電所から約100㌔離れた福島県二本松市に住んでいた。東日本大震災から3日後の2011年3月14日、原子炉建屋が水素爆発で崩落。伊東さんと妻、子ども3人の一家5人は同15日、放射能を避けるため福島を離れ、翌16日義姉の住む宮古島にたどり着いた。それから2年半。現在は太陽建設(吉本光吉社長)に勤め、木造大工職人の本領を発揮している。
平良盛加で建設中の木造家屋は、ほとんどが手作り。木組みが精巧で、美しい。高校を卒業後、福島県の名工・先崎久さんに弟子入りした。この間に磨いた技は、かなりレベルが高い。
宮古に持ってきたのは、妻は子どものミルクとオムツ。伊東さんは裸一貫「職人の技」だけだった。「宮古の皆さんには、電気製品や子どもの服を譲ってもらうなど大変お世話になった。恩返しのためにも、若い職人を育てたい」と、弟子の育成に強い意欲を見せる。
現在手掛ける木造家屋は、土台に柱を固定し、風の力に対応する「筋交い」を強化するなど、強い台風にも耐えられるよう構造を工夫した。
伊東さんは約65年前に建てられた古い赤瓦屋根の建物を見学し、宮古にも高度な木造技術があることを確認した。「宮古と東北の技術を融合すれば、宮古に適した新しい建物ができるかも知れない」と新建築様式の創造にも胸を膨らませる。
昨年暮れ福島に帰り、先崎師匠に宮古でも福島の技術を生かして住宅を造る予定になったことを報告。この話を聞いて喜んでいた先崎師匠は、その2日後に他界した。
宮古にはかつて、木造家屋職人が大勢いた。近年は、鉄筋コンクリート様式に変わり激減。木造建築の場合でも、工場で木工を行い現場では組み立てるだけの作業になったため、大工職人が育たなくなった。