台湾から恩師の家族訪問
松川さんの子らと涙の対面/高雄市に住む戴さん
「70年来の思いかなう」
台湾高雄市岡山区に住む医師の戴文凱さん(79)が18日、幼いころ勉強を教わった恩師松川浩さんの家族を訪ねて来島した。空港では松川さんの長女真栄田昭子さん(85)=下地川満=らが出迎えて花束を贈呈。戴さんと真栄田さんは、涙をぽろぽろと流す感激の対面となった。戴さんは「先生の家族に会えてうれしい。70年来の思いがかなった」と感無量の様子。真栄田さんは「涙があふれるばかり。戴さんの温かい気持ちには感謝と感激の思いでいっぱい」と語った。
「恩師の松川先生、あるいは家族をさがしています。現住所が分かれば教えてください」-。今年の5月14日、戴さんから下地敏彦市長宛てにそんな手紙が届いた。同日、台湾出身の羽地芳子さんが手紙をつてに、松川さんの家族を探し当て今回の対面につないだ。
下地市長を訪ねた戴さんは、家族を捜してくれたことに感謝する記念の盾をプレゼント。ループタイや菓子などの土産も携えた。
下地市長は「松川さんの家族が、すぐに見つかって良かった。台湾での昔話をする良い機会になると思う。松川さんと戴さんのつながりを縁に、台湾と宮古がもっと仲良くなれば」と今後の交流発展に期待した。
真栄田さんが携えた松川さんの遺影を目にした戴さんは「先生だ。覚えている」と興奮気味に話した。
宮古に来たのは戴さんと義弟の羅秀雄さんの2人。宮古からは真栄田さんと二女金城絹枝さん夫婦(下地川満)らが出迎えた。兵庫県からも三男勝行さん夫婦が駆け付けた。
一行は夕食しながら団らん。きょう19日は、宮古観光を楽しむ。
松川さんは太平洋戦争が終わる前年の1944年、台湾高雄永安区永安小学校長を務めていた。生きていたら113歳。戦後は宮古島の下地川満に住んでいた。
真栄田さんは、父の実家の隣りに住む。父浩さんは54年前に60歳で他界。母登枝子さんは27年前に85歳で死去した。松川さんの一家は那覇に引っ越し、位牌は孫の憲彦さんが祭っている。
松川さんと戴さんの接点は、終戦直後の台湾にさかのぼる。松川さんは日本が台湾の統治権を失ったことで、校長職を失い苦しい生活を余儀なくされた。そんな時、戴さんの父が、子どもたちの家庭教師に招いた。戴さんは当時、小学2年生。兄弟が数学などを学んだ。
戦後、松川さんが宮古から戴さんに宛てたはがきには「幾月かの間あの2階で、一緒に勉強し又寝た事などが思い出されます」と幼いころの戴さんとの触れ合いをしのんだ。戴さんは同はがきも持ち寄り、下地市長に見せた。
松川さん一家は、終戦翌年の1946年宮古に引き上げた。松川さんは農業を2年ほどして、盛島明得下地町長に請われ、助役を務め任期途中に亡くなった。昭子さんは「うそのつけない正直な人だった」と亡き父をしのぶ。