【私見公論】発掘調査で確認される自然災害/久貝弥嗣
11月5日は「津波防災の日」である。これは、2011年の東日本大震災において、東北地方の太平洋沿岸を襲った津波によって多くの人命が失われたことを受けて、津波から国民の生命を守ることを目的に制定された「津波対策の推進に関する法律」の中で決められている。
ご存じの方も多いと思うが、1771年旧暦の3月10日(新暦では4月20日)、石垣島の南東沖を震源とするマグニチュード7・4の大地震に伴う大津波によって、宮古・八重山諸島は甚大な被害を受けている(震源地については石垣島と多良間島の間に位置する断層とする研究もある)。この当時の宮古諸島における津波による被害状況は、『思明氏家譜』の付属文書である「御問合書」の中で詳細に記録されている。この歴史資料をみると、宮古諸島で最も被害が大きかったのは宮古島の南海岸に位置する宮国、新里、砂川、友利の集落で、591戸の家屋が崩壊し、約2040名の百姓や役人が亡くなっている。多良間島、水納島を含む宮古諸島全域での死亡者数が2548人と記されていることから、約8割が四つの集落で占められていることになる。
発掘調査においても、1771年の津波の痕跡が確認されている。1987年に発掘調査の行われた友利元島遺跡では、近世の生活跡を覆うようにして砂礫層が堆積している状況が確認され、この砂礫層が1771年の津波によるものであることが報告されている。この調査成果は、沖縄県内で初めて確認された自然災害の痕跡となった。友利元島遺跡では、1995年、2013年の調査においても同様の津波堆積層が確認され、近年では砂川元島遺跡からも津波堆積層が確認されている。これらの調査の中では、有孔虫、珪藻についての科学分析なども新たに取り入れられるなどその調査方法も多様化している。このような1771年の津波堆積物が多くの発掘調査で確認されるのには、一つの要因がある。
津波が襲来した1771年の段階では、宮国、新里、砂川、友利の集落は、標高の低い海岸線に位置していた。このような立地は、津波による被害を大きくした要因である。そこで、1771年の後には、標高の高い現在の集落の場所へと移動し、津波への対策を行っている。このような集落を移動する状況は、2011年の東日本大震災でも見られ、年代を問わない自然災害へ対する備えの一つの方法といえる。宮古島においては、この津波襲来前の集落の場所の多くは畑として利用されている。そのため、大きな土地の改変を受けることなく、地中には1771年以前の人の生活の跡が津波堆積物によって覆われた状態で残されているのである。
2011年の東日本大震災以降、日本の各地で自然災害をテーマとしたシンポジウムや講座が多く行われることとなった。宮古島市内でも、考古学の分野から、前述してきた1771年の津波以外にも、それ以前の津波に関する調査や、地学分野を中心とした津波石に関する研究、古文書等に残された記録を使った歴史学の分野など他方面から活発な研究活動が行われている。
このような調査研究以外にも、宮古島市内には津波に関する文化財が多く残されている。1771年の津波で亡くなった遺体の一部は、与那覇の前浜に流れ着いている。遺体は前浜後方の丘陵地(前山)に合葬され、その犠牲者を弔うために石碑が建てられた。この石碑は、現在でも前山に残されており、「乾隆三十六年大波」碑として平成28年6月16日に宮古島市の指定文化財(史跡)となっている。また、砂川、友利の集落では、津波除けの祭祀としてのナーパイが現在でも脈々と受け継がれている。このような祭祀が現在にまで残されている事例は国内でも類をみないものである。
このような津波に関する調査研究、文化財としての石碑や祭祀行事が果たす大きな役割は、現在の社会における自然災害に対する啓蒙にあるといえる。過去の自然災害の全容を把握することは困難であるといえるが、これらの過去の自然災害の歴史を知ることで、現在の自然災害への備えの意識付けを高めていくことが大切なことだと考える。
(宮古郷土史研究会会員)