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社会・全般
初期のころのマラソン/石垣 義夫
ペン遊ペン楽2010.11.25
初期のころのマラソン/石垣 義夫
今は、マラソンブームだが、以前、突如として宮古島にマラソンがやってきたことがあったようだ。
昭和3年、全国学生マラソン連盟主催、報知新聞後援で、東京-京都間の25区間で昭和天皇即位を記念した御大典記念東西対抗マラソン大会から開かれたという。あのころの時代を反映して、参加選手も3府43県に、樺太・台湾・北海道・朝鮮と50地方から一人ずつ参加したという。
当時としては物珍しく、沿道には、どこも黒山の人だかりができたという。そんな盛り上がりのなかで、西軍が逆転して優勝をしている。優勝した西軍に、沖縄を代表して第8区・興津-静岡間の砂利道を素足で走った宮古の砂川泰久さんがいて、一躍有名になる。
砂川泰久さんは、のちに川上勝之と名を改めたとされているが、砂川泰久の名が知られていたためか、そのまま砂川泰久の名で呼ばれたようで〝泰久マラソン〟としての足跡が残されている。砂川泰久さんは、明治36年の生まれというから御大典駅伝で活躍したのは26歳のころとなる。城辺・底原の生まれだった。砂糖樽を底原から平良の街に運ぶ車夫だったため、日ごろから足腰は鍛えられていたようだ。
宮古島市体育協会60周年記念誌によると、宮古代表を決める選抜大会は西城のキャーギ嶺にあった運動場を7周半まわされ、1位に新里金正さん、2位に砂川泰久さんがなったという。ところが医者の検診の結果、2位だった砂川泰久さんが宮古代表に選抜される。
沖縄代表選抜大会は那覇-与那原の25キロで行われ、砂川泰久さんが優勝して沖縄代表になる。その沖縄代表選抜大会で、宮古からもう一人のヒーローがいた。前宮古島市の市長・伊志嶺亮さんの父・静雄さんが沖縄師範から出場していて見事5位になっている。
当時のマラソン選手のほとんどは車夫か人力車引きだったようで、沖縄選抜大会での上位3位までを車夫が占めたという。
宮古体育協会60周年記念誌は、沖縄大会における当間重剛さんの話として面白いエピソードを収めている。
それによると、大会のたびに棒2本を持って走る選手がおり、「何で棒を持って走るのか」とたしなめると、「日ごろからのクセで、手に何かを持って走らないと調子が出ない」と、役員たちを困惑させたという。走り方も、両手を前後に振らず、両手を前に突き出し前かがみのまま、日ごろの車夫の走り、そのままの選手もいたという。
オリンピックのはだしのアべべのように素足で走ったという砂川泰久さんといい、よほど物珍しい大会風景だったようだ。
(宮古ペンクラブ会員)