米軍空中写真を展示/「慰霊の日」平和展始まる
戦時中、軍の滑走路くっきり
市総合博物館
市総合博物館の慰霊の日平和展「米軍撮影空中写真からみる戦中の宮古」が25日から始まった。来月24日まで。会場には県公文書館が所蔵する当時の米軍が撮影した宮古島上空からの写真を組み合わせた接合写真など21点が展示されている。訪れた人たちは、戦時中の宮古に存在した旧日本軍の三つの空港と6本の滑走路が撮影された写真に見入り、現在の状況と比較しながら、平和の尊さを改めて感じていた。
今回展示されているのは、高度約3000㍍の上空から撮影された空中写真約100枚を組み合わせた接合写真7点と高度約6000㍍の上空から撮影された空中写真9点のほか、地図5点。
空中写真の中には、戦時中の宮古島に旧日本陸軍と海軍の飛行場が3カ所あり、滑走路も合計で6本あったことがわかる空中写真も展示されている。
このうち、現在の宮古空港である海軍飛行場には主滑走路(北東から南西へ1400㍍)のほか、風向きに配慮した副滑走路も2本あった。
島のほぼ真ん中に位置する上野字野原には、陸軍中飛行場が建設され逆「ハ」の字型の滑走路が2本(東側1700㍍、西側1400㍍)あった。
そのほかにも、陸軍西飛行場が下地字洲鎌から与那覇にかけて1250㍍の滑走路を有していたが、滑走路正面に来間島があるという悪条件であまり使用されなかったという。
当時、宮古島は島全体が平たんで航空基地として最適だと判断されており、同博物館学芸員の與那覇史香さんは「もう一つ飛行場が、城辺の比嘉にも建設される予定だったが、実現はしなかったようだ」と話した。
しかし、この三つの飛行場を造るために多くの島民が強制的に土地を接収され、家屋だけでなく収穫前の農作物もすべて容赦なく強制退去された。
海軍飛行場には255人、陸軍中飛行場は117人、同西飛行場は68人の土地所有者がいた。
さらに、海軍飛行場建設の際に、強制的に集落移転させられた住民の一部は現在の袖山浄水場近くの袖山に集落移転。しかし、マラリアによる死者が続出市、残った人々も村を離れ袖山集落は消滅。
今回展示された中には、消滅した袖山集落と思われる空中写真も展示されている。
今回の平和展に寄せて宮国恵良館長は「観覧されたそれぞれの心に感じるものがあると思う。この展示会を通して過去の状況を振り返り、平和とは何かを考える機会にしてほしい」と述べた。