【私見公論】親泊 宗秀/ロビーにたたずむ主役たち
花は人の心を和ませる。もちろん、花自体は人を和ませるためにあるわけではない。自然の一部として、地球環境の循環に適応しながら脈々と子孫を残し続けている存在だ。
人はその花を生活の一部に取り入れ、さまざまなシチュエーションに活用している。
思いを寄せる相手にバラの花束を捧げ、情熱を伝えようとしたり、この世を去る人に生きた証しとして、生命の象徴である花をたむける。他にも、ガーデニングのように、植物が放つエネルギーを身近に感じつつ、花の「気」をお裾分けしてもらっている。
花屋には、色とりどり、さまざまな種類の花が置かれている。季節に合わせ、春は、サクラ、淡い色合いが穏やかな気持ちにさせてくれる。夏になれば、ひまわりが元気を誘う。
私は、どうしてだかカスミソウに心ひかれる。主役ではなく花束の脇役として、あまり主張しない奥ゆかしさに、心が揺らぐのかもしれない。めったに行かない花屋だが、花束を買い求めるとき「カスミソウ多めで」と、そば屋での注文よろしく、お願いをする。
脇役といえば、劇場で催し物が行われるときなどに、会場を華やかにする花のスタンドがある。観客を導くようにロビーに整然とならべられているのをみかけることがあると思う。
その花たちは、花屋が関係者から注文を受け、開演前に搬入される。いわゆる生花(せいか)といわれるものだ。生花だけに、飾られるタイミングに合わせ、より華やいだ演出の下に、その役割を果たさなければならない。ある意味では、劇場のロビーは花屋さんたちの表舞台である。
そうなると、ロビーは花スタンドを飾る花屋の腕の見せどころとなる、自社の花をより豪華で美しく、また、贈り手の思いを裏切らないよう仕上げなければならなくなる。
飾り手の思いとは相反して、失礼なことに、ロビーなどに飾られている花スタンドを見るとき、花を見るのではなく、贈り主は誰なのかに目がいってしまう。しかし、前述に示したように、花を生ける側は、花の種類、空間を彩る葉物を選別し、注文の価格に合わせた素材で構成していくことになるはずだ。
目では見えないが舞台にはセンター(中心)があり、すべての所作は、左右、前後のバランスを考え行う必要がある。そうでないと客席から観たとき、不自然さを感じさせることになるからだ。同じようなことが、生花の世界にも存在する出来事と出合った。
いつものように、ロビーには何社かの花スタンドが搬入されていた。最近、言葉を交わすようになった花屋の主人が搬入する場に居合わせたときのことだ。
花が搬入された後、ひとしきり会話を交わし、施錠をするため主人と玄関に向かった。すると、主人が出入り口付近にあった花スタンドの前で立ち止まり、「親泊さん、私がここを持ち上げるから、スタンドを回してくれない」と言ってきた。
スタンドは二段構造になっているもので、上段を持ち上げている主人、スタンドを回す私、「これで、いいですか」
「いやもう少し、回して」
「?…」
「どこの花屋さんかな」
「ちゃんとやってあげないと、だめだよ」と、言いながら「ハイ! これでオーケイ!」と納得して帰っていった。
主人は、同業者が搬入してあった花スタンドの、上段と下段のセンターがズレているのに気づき、さりげなく直し立ち去っていったのだ。
「ちゃんとやってあげないと、だめだよ」。この言葉から、主人の仕事に対する姿勢が、うかがい知れる。同業者の物であろうがなかろうが関係なく、花をいかに輝かせるかに、焦点があり、ブレない信念のようなものを感じさせられた。
武士道に「残心」という心得があるが、切り花の役割を成就させるため、心を尽くし、花への思いやりを忘れない。命あるものを昇華させたい思いが、培われてきたのだろう。
心も開花している主人に敬服しきりである。何事にも言えることだが、センターが定まっていないとバランスが保てなくなるようだ。