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旧暦:10月21日 赤口 己 
美ぎスマ
2019年4月27日(土)8:54

【美ぎスマ】浦底遺跡出土品文化財指定へ/城辺地区福北集落

貝斧に先人のパワー息づく


浦底遺跡から出土した貝斧

浦底遺跡から出土した貝斧

 2500~1800年前、福北の浦底海岸に貝斧などを生活道具に狩猟生活をしていた人々がいた。貝斧でカヌーや家などを作り、食糧は貝や魚やイノシシなどを捕り、石を焼いて木の葉などに包んで蒸し焼きなどにする料理を作っていた。現代人から見たらストレスがなくておいしい貝が食べられる優雅な生活。遺跡の近くには野城泉があり水にも困らなかった。幸せに暮らしていた浦底の人々に何があったのか、1800年前ごろどこかに行ってしまった。考古学者たちは浦底の人々がどこから来て、どこに行ったのか足跡を追っているがまだ分かっていない。

 出土した貝斧は200点以上で1カ所の遺跡(4000平方㍍)から出る数としては、世界で最も多いという。出土品は以前、県が保管していたが、2016年30年ぶりに宮古島市に帰還した。市教育委員会は現在、浦底遺跡から出た出土品の文化財指定に向け出土資料の整理と報告書を準備中。展示場所は新しく建設する総合博物館を検討している。

 最初の発掘調査は1987~1988年に行われた。出土品は貝斧や石を焼いて料理を作った集積遺構(168基)、さまざまな貝製品、埋葬人骨2体などが出た。人骨は年代測定の結果、11世紀~13世紀のもので無土器期時代(2500~1800年前=浦底に人が住んでいた時代)の遺骨ではないと判明した。同人骨は浅い層から出たもので、古い層からはまだ1体も出土していない。浦底の人々がどのように死者を葬ったかも謎に包まれている。仮に、古い人骨が出た場合は、DNAの鑑定結果からルーツや子孫の消息を知る大きな手がかりを得られるという。

 浦底の貝斧については、南方起源説やサンゴ礁に囲まれた宮古島の環境の中で生まれた「独自文化」などの説が論じられている。

福北の沿革

 福北は城辺小学校北側に位置し福里字にある五つの兄弟集落(福東、福中、福西、福南、福北)の一つ。野城泉、野城遺跡、浦底遺跡などがあり、歴史のロマンを秘める。1874年に西里添村から分離独立した。3月末現在の人口は142人(男性72人、女性70人)、世帯数は74戸。

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