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社会・全般
森と海の幸を恵みに/高野集落
入植当時(1961年)通称「大野越」と呼ばれていたが、近くに同名の集落があることから、当時の役員(会長・知念邦夫、総務・狩俣徳蔵、顧問・狩俣喜一郎)らは、集落名を改める必要に迫られ、2年後自治総会の承認を受け「高野」とした。由来は「野原の如く高くそびえ立つ集落」という意味を含めた。
汗の結晶、好環境に
左手に海、背中に森を配し、自然豊かな高野集落が今年で入植50年を迎える。当時、開墾から始まった集落づくりではあったが、大野山林の山の幸、白川田の海の幸に恵まれた。1961年、琉球政府の移住計画によって、大神島(17戸)、多良間村水納島(18戸)、宮古本島(5戸)計40戸、275人(男子137人・女子138人)が入植し、当時は大野越と呼ばれた。
72年の本土復帰に伴い、「高野地区干拓整備事業」がスタートし、基盤整備を始め、農道、畑地かんがいなどの整備が行われた。その後、老朽化で施設の利用が困難となり、干ばつ時においては水不足で作物などに多大な影響が及ぼされた。宮古本島で国営地下ダムが建設されてからは、高野地区でも2003年、新たに県営かんがい排水事業が実施
され、08年に完成した。
畜産で結ぶ郷里への思い/宮国さん一家
高野集落東方に480平方メートルの敷地で牛舎と牧場を経営する宮国孝平さん(56歳)。水納島では、弟の弘市さん(4男)と重信さん(5男)が150頭の母牛を養う。三男の宮国さんは、島で生まれた子牛を宮古島の競り市に出荷するため、週に一度は水納島と宮古島を往復している。今年は初競りで好高値を取得、幸先良い1年を迎えた。
高野の牛舎には常に50頭前後の子牛が万全な環境の元すくすくと育つ。妻の政乃さんも夫を支えて畜産に励む。宮国さんが高野で牧場を始めたのは2005年から。それまで水納島で、両親と3人の兄弟で牛を飼っていた。定期船がなく、牛を競り市に出すのも、自前の船で多良間島や宮古島に出荷していた。
「平良に住む家族とも離ればなれで暮らしていたので、高野の叔父を頼って牧場を確保した。今では、水納で子牛が生まれると2カ月後には連れてきてここで成長させ競り市に出すような連係プレーができた」と宮国さん。
島で最後まで残った宮国家
高野への入植が始まった50年前、宮国さんは5歳だった。「確か、6世帯だけが残ったと記憶している。石垣や、沖縄本島への移住もあった。友だちらが出ていくのがほんとに寂しかった。父岩松は、絶対島を捨てないと頑張った。確かに、水納は砂地で農作物は育たないし、交通の便も悪い。12㌔離れた多良間へもサバニで行った。それでも魚介類は豊富で生活は海に頼っていた。換金できるものは、アーサや魚など。
中学になると多良間島に住み、高校は宮古島に住んだ。高校卒業後、横浜で3年間働いたが、やっぱり郷里のことが気になり帰ってきた。
それからは、島を良くするために、行政への働きかけをした。地道な要請活動の成果で水道が1983年、電気が89年につながった。港が整備されたのは80年だった。何とか文明に預かれたものの、人口は減る一方で定期船は就航しなかった。
現在、島には母親のマツさん(88歳)と、兄弟2人が住み畜産に従事する。最後まで頑張った父親の岩松さんは、4年前91歳で亡くなった。「宮古8島の一つでも在るから、島をもう一度元気にしたい。そのために島に必要な産業(畜産)にも力を入れている。島に定期船が就航するようになれば観光にも結びつけられると思う」と、宮国さんの夢は大きい。
水納御嶽
高野集落の東方、県道83号(通称・一週道路)から高野漁港に向かう右手に所在する。水納から移住してきた人たちの心の拠り所で、旧暦3月の麦プーイや粟プーイは今でも盛んに行われている。
ほこらの右側にはミズヌヌスとリュウグウヌヌスのイビ石がある。集落創設後、最初に仕立てられた御嶽。後に、水納出身者だけが参拝するようになった。