大神島に電柱建てる/復帰50年の記憶
50年前、すべて手作業/宮里敏男さん(当時・大和電工社長)
「思い出の島盛り上げたい」
大神島に電柱が建てられ電気が灯ったのは本土復帰直後だ。携わった宮里敏男さん(79歳)は、本土復帰50年の節目を機に約50年ぶりに大神島を訪れた。自身が建てた電柱は建て替えられていたが、当時の記憶は鮮やかによみがえった。苦しかった作業、島の人たちとの交流、電気がついた瞬間の感激…。「大神島での実績は仕事の幅を広げるきっかけになった」と宮里さん。島は高齢化が進み、学校は閉校したが豊かな自然は変わりない。「お世話になった島を少しでも盛り上げることができれば」と話した。
当時の平良市から工事を発注されたのは宮里さんが社長を務める大和電工。沖縄が本土に復帰する前日の1972(昭和47)年5月14日に設立されたばかりだった。
宮里さんは当時、船に22本の木製の電柱をロープで結び、筏(いかだ)のように海に浮かべて大神島まで運んだ。
午前9時過ぎに宮古本島を出発し、到着したのは午後3時過ぎ。当時島には港が整備されておらず、岩がごろごろと転がっていた場所からの陸揚げは大変な労力を強いられた。
「島の漁師たちが手伝ってくれた。打ち寄せる波に合わせて、1本ずつ『せーの』と声を張り上げて陸に揚げた。海水を吸った電柱はとても重かった」
電柱はオートバイで引っ張って設置場所に移動。穴掘りもすべてが手作業で「1日1本か2本がやっとだった」
一緒に島まで行った従業員は、あまりの重労働にすぐに音を上げた。「休養のためと称して宮古本島に戻ると、もう現場には帰って来なかった」。一人残った宮里さんは、電柱を建てる穴を掘り1本ずつ設置していった。
「作業がすべて終わり、島の家々に明かりがついた時には苦労の甲斐あって感激もひとしおだった」と振り返った。
電柱を建てたといっても当時の大神島に電気そのものは引かれておらず、発電機で宮里さんが建てた電柱を使い各家庭に配電した。「数時間ほどしか使えなかったが、それでも島の人たちにはとても感謝された」。その発電室は今でも残っている。
現自治会長の根間功一郎さん(63)は復帰当時、中2だった。中学を卒業すると宮古本島で下宿生活をして高校に通い、島には1週間に1度帰るくらいだった。「同級生は6人。島を出て移民した人が多く、私たちの時は小中合わせて60人弱だった」と話した。
現在は15世帯21人が住んでいる。最高齢者は97歳の男性。
大神島での配電工事費はドルで契約した。いったんは1ドル305円の交換レートで受け取った。後に1ドル360円のレートとなり、差額は補償してもらった。「請負額は約2200ドル。差額はもうけになった」と話した。
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宮里 敏男(みやざと・としお) 1942(昭和17)年生まれ。城辺新城出身。大和電工創設者。現在同社会長、やまと商事代表、宮古保護区協力雇用主会会長。