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社会・全般
「慰霊の日」変化する戦跡周辺
消滅の危機に懸念の声
戦後64年の「慰霊の日」が来る。時代の流れの中で戦跡は追いやられ消滅しかかっている。何よりも周辺の開発によって、歴史が払拭(ふっしょく)されようとしている。大戦末期の1943年9月以降、宮古には3つの軍用飛行場が設営された。島全体が軍事基地化され3万余の陸海軍将兵が昼夜活動した。高齢者や女性、子どもたちおよそ8千人は台湾や九州に強制疎開させられ、残った働き手のほとんどは中学生、女学生まで現地召集・徴用(ちょうよう)で、軍事基地設営、戦闘訓練に明け暮れた。「沖縄戦」では、地上戦こそなかったものの、米英軍の連日の猛爆で、野良仕事はおろか逃げまどうのに必死だった。海空の輸送路を断たれ、食料や医薬品の補給もなく住民も兵士も餓(う)えと風土病マラリヤのため多くの命が失われた。案内した元平良文化財保護審議会委員長の友利恵勇さんは「戦争遺跡は当時を思い起こす大事な証し。残すことで平和の尊さを再確認したい」と話す。
特攻艇秘匿壕跡(とっこうていひとくごうあと)と荷川取公園
平良西仲宗根の荷川取公民館後ろに大規模な公園が広がる。以前は、原野の中に古墓や戦争遺跡が散在し、ほとんど住民が足を踏み入れることもなかった。公園から橋を渡った西側に特攻艇秘匿壕跡が十数カ所あるが、今では訪れる人もなく、雑木でおおわれる。
海上挺進基地第四戦隊は通称海上特攻隊と呼ばれ、宮古に六十四人が入った。荷川取海岸で洞窟(どうくつ)を掘り、四十七隻の特攻艇を秘匿するためだった。特攻艇は一人乗り、全ベニヤ板製で、長さ五・六㍍、幅一・八㍍、重さ〇・九㌧、時速二十三ノットの爆雷を装備していた。夜間、敵船団の中に激突するのが目的で、隊員は戻ることはなかった。当時、「青ガエル」や「千円の棺桶(かんおけ)」とも呼ばれた。
秘匿壕の構築では、約六十人が犠牲者となった。終戦の年に慰霊碑が荷川取公園裏に建立されたが、現在は荷川取公園の高台に移動されている。一帯は、壕なども含め多くの戦跡が残る場所だったが、現在は一九九一年から着工した公園開発で環境が大きく変化した。
十六年掛けて完成した荷川取公園は総事業費十八億二千百万円をかけて実現した。面積は三・八㌶。体験学習広場や人道橋、野鳥観察用デッキ、遠見台、あずまや六カ所、多目的広場などが設けられた。体験学習の中にはぜひ、戦跡巡りも組み入れてほしいほど周辺には数多くの戦跡がひっそりとある。
<狩俣西海岸のヌーザランミ>
海岸に近い道路を少し入ると人為的に掘られた壕の跡がある。途中で何カ所にも枝分かれしている。天井の石灰岩がむき出しになって、所々落盤も見られる。左右に延びる通路は先にぼんやりと光が見え、それほど長くはなさそうだが、直進の通路は真っ暗で距離が測れない状況。天井は崩れ、危険な状態でこのまま歴史を閉ざしてしまう懸念も。
近くの海岸で不思議な遺跡を見つける。コンクリートで頑強に固められたE字型の異物は、風雨にさらされ無用の長物としてそこにあった。友利さんは「以前はここに水が流れていたと思われる。おそらく、秘匿していた特攻艇がここを通って海に出ただろう」と話した。
近くでは、大がかりな公園工事が進められている。経済部むらづくり課の進める健康ふれあい公園だ。コミュニティーパークとして八月の完成予定で、レクリエーション施設が急ピッチで造成中。
<トゥリバー特攻艇秘匿壕跡>
パイナガマビーチの南西に、今でも壕の跡が数カ所見られるトゥリバー。ここも第四戦隊によって構築された。三十戦隊が配備される予定だったが、実現せずに終戦となった。南側には、宮古島コースタルリゾートが開け、さらに伊良部大橋の工事のため、周辺の道路は大幅に変わった。
記念碑に込める平和の祈り
上野野原にある戦争を詠った歌碑。「補充兵われも飢えつつ餓死兵の骸(むくろ)焼し宮古(しま)よ八月は地獄」は一九四三年に補充兵(衛生兵)として宮古に召集された高沢義人さん(九五歳。千葉県在住)の歌。ほかにも「犬、猫、鳥、みな食いつくし熱帯魚に極限の命つなぎたる島」などもあり、当時の惨状をあらわしている。二〇〇五年八月に建立された。
歌碑の北隣には「アリランの碑」が昨年「記念碑を建てる会」によって建立された。戦争期、日本軍はアジア太平洋全域に「慰安所」を造ったとされ、宮古にも十六カ所が確認されている。記念碑の後方にはアジア十二カ国の原語でメッセージが掘られ「日本軍による性暴力被害を受けた一人一人の女性の苦しみを記憶し、全世界の戦時暴力の被害を悼(いた)み、二度と戦争のない平和な世界を祈る」とある。