人目引く「みゃーか」/重要文化財指定へ
豊見親育てた大殿眠る
幼いころの仲宗根豊見親を養育したとされる大立大殿(うぷだてぃうぷとぅぬ)のみゃーか(巨石墓)が、地上に突き出た形の土地の上=マティダ市民劇場斜め向かい=に姿を見せ、道行く人の目を引き付けている。みゃーかは大きな石を組んだ構造物。市教育委員会は豊見親時代の歴史を語る上で重要な文化財として、指定に向け作業を進めている。
「大立大殿みゃーか」の原形は、1930年代に撮影した写真に収められている。写真には石の囲いが写っているが、現在は残っていない。
地上に突き出た土地は市道下里西通り線の拡幅工事に伴って形成された。面積は約25平方㍍。道路工事前のみゃーかは生い茂る花木などに周囲をさえぎられて見えにくかった。これが工事に伴い周辺の土を掘り取られて地上高2・2㍍の所まで浮上し、目立つようになった。
みゃーかは四方を石で囲い、上部に平たい一枚岩をかぶせてある。この岩は縦の長さが2・1㍍、横幅が1・3㍍と大きい。持ち上げるのにかなりの力を要したとみられる。
1977年ごろ、女性の「カンカカリャ」が当時の平良市教育委員会を訪れ、「イスヌヤー(大立大殿みゃーか)を開けてくれ」と頼んだことが会社の倉庫の中にあった「みゃーか」を明るみに出すきっかけとなった。市教委はみゃーかを囲んでいたブロック塀の一部を取り払い、中に入れるようにした。
平良市文化財保護審議会は78年から文化財指定に向けて審議を開始し、88年に教育委員会に答申。現在は事務手続きを残すのみとなった。
砂川玄正・宮古島市文化財審議会長は「みゃーかについては原形への復元を視野に移動が可能かも検討した。しかし、文化財は現地保存が基本として現在地に残すことを審議会で承認した」と話した。
突き出た土地は、歩道の中央にある。行政は、周囲の壁にトラパーチンを張り景観を美しくすることにしている。
大立大殿 与那覇勢頭豊見親の孫。1457~64年に宮古の主長を務めた。在任中に空広(仲宗根豊見親の幼名)と出会い、成人になるまで養育した。晩年には、その子の能知伝盛(ぬちでもり)恵照を後継者に立て、空広玄雅を執権とした。恵照は中山に年貢を納めた帰りに久米島に漂着し同地で病死。これを機に島内の政権は玄雅に移り玄雅は中山より宮古の主長に任ぜられた。