苦言、提言、ホラ吹き(4)/棚原 惠照
パイロット訓練場誘致の経緯と今後の行方は
私見公論 22
下地島空港をめぐる動きが昨年から急に騒がしくなってきた。伊良部町時代も議員を中心に自衛隊誘致問題が浮上したり、立ち消えたりしていた。そういう中で2011年3月、「自衛隊を誘致する会」が伊良部住民30名ほどで結成された。下地島に自衛隊を速やかに配備し、国防の充実を図ることを訴えてのことである。が、しかし会員の中には「伊良部は人口の減少や高齢化、経済の衰退などで島が崩壊しようとしている。それを防ぐには自衛隊誘致が必要など」と言っている。
また、一方で同年5月、下地島空港の軍事化、軍事利用に反対する「平和運動連絡協議会」が結成された。ヤマトゥから移り住んだ人を共同代表として、労働組合、平和運動をする市民団体などがメンバーである。双方の運動が今後活発になるであろうことを思うとき、過ぎし42年前起きたさまざまなことを思い出した。日本の敗戦から4分の1世紀の間、祖国に帰るための民族闘争の中で1968年、主席公選を勝ち取り、革新共闘の代表として屋良朝苗氏が主席選挙で当選した。このことは異民族支配から脱却する第一歩として高く評価された。
年が明けた1969年1月26日、突如、パイロット養成所建設用地として、宮古島平良市ピンフ嶺と、下地島が調査されていることがラジオ放送で表面化した。その後、日・米・琉、諮問委員会が調査した結果、下地島が最適である、と決定した。21世紀の飛行機として国際航空界の「マト」になる、S・S・T(超音速旅客機)として日本政府がその開発の受け入れに本格的な姿勢を示したことでパイロット訓練場が必要になった。同年2月、日本航空松尾社長は、将来のS・S・T、時代に備えて伊良部村下地島に乗員訓練場の建設計画があることを初めて明らかにした。それを境に賛成、反対、と住民を二分する大きな問題に発展した。
原水協を中心にした反対運動、商工会議所を中心にした賛成行動、その中で主席に就任したばかりの屋良主席、宮古地方庁長の宮国泰良氏らは、計り知れない苦悩に直面した。また、政府与党の社大党も宮古連合支部の反対により、安里積千代委員長が数回にわたり下地島を視察し、連合支部の意向を聞き態度決定に苦慮した。さんざんな苦しみを克服し、1971年8月、「屋良覚書」により1979年開港した。また、1979年、西銘知事が下地島空港の管理について(第三種空港)に設置替え申請され、その認可により今日に至っている。
ところで、「下地島に自衛隊を誘致する会」は国防の充実を図るために下地島に自衛隊と言っているが、自衛隊の主たる任務について国防の基本方針を知っているのか、なぜ下地島に自衛隊が必要か全く理解に苦しむ。むしろ会員の一人が「島の過疎対策のために」自衛隊誘致をすべき、と言ったことが本音ではないだろうか。また、「平和運動連絡協議会」は話し合いで外交問題が解決できるかのような発言をしているが、あまりに短絡過ぎる。今や、中国、韓国、北朝鮮は日本に対し際立った圧力をかけてきている。日本は主権独立国家にふさわしい国力を強化し、国民の生命、財産を守る術を考えなければならない。行革の推進のさなかとはいえむしろ、自衛官、海上保安官、警察官等はもっと増員、強化策をとるための施設誘致は考えられないのか。国力の強化なくして平和外交の強力な進展は難しい。
昨今の下地敏彦市長の要請行動は双方の動きにストップをかけるために功を奏したと思うが、もう少し早くはできなかったのか。議会は対応を考えていないのか、今こそ議会が積極的に取り組むことではないのか。下地島空港を国際空港として東南アジアの中継基地と位置づけ、食糧、燃料の一大備蓄基地とし、日本の地震災害時に輸送、その他で対処するための最適地であると考えられる。