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私見公論
2012年4月20日(金)22:39

ふるさと(1)/渡久山 春英

私見公論26


 「はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢつと手を見る」。石川啄木がいかに貧乏の環境の下に生まれ、生きていたか彼の作品に表れている。一生を通して貧乏神を背負って歩いていたように思われてならない。


 40年前までの宮古の子供たちは鼻を垂れ、眼球鋭く、満腹でもないのに腹は大きかった。生きるためには山野に行き、木の実・野草などを食べて空腹をごまかした。栄養失調症の子供はどの家にもいた。医者は口の両側の患部を診て、ビタミン欠乏だと学校検診のとき話していた。啄木はインキのにおいが空腹にしみ込む思いをしたそうだ。宮古では夕方の帰り道、隣の油揚げのにおいで空腹が痛め付けられた。裸足で遊んで帰り道だった。

 ふるさとへは人それぞれの思い出があるものだ。言葉もその一つである。郷友会の集会や敬老会などで「あいさつは方言で」と和やかになるのも、愛郷心からであり、高度な演説を求めているのではない。まして、異郷の地に居てふるさとの言葉を聞くときは、感涙の気持ちである。鬼の目にも涙である。啄木はふるさとの言葉を聞きたいために、停車場の人混みの中に通った。渋民村の方言を話す人に会いたかったのである。

 ふるさとの思い出に学校生活を挙げる人もいる。「起立、気をつけ、これから早春賦を歌うぞ」。終戦後の小学校4年生のときだった。熱血先生はオルガンを弾き始めた。先生は前奏に続いて「ハイ」。みんなに歌を促した。みんなは「は る は な…」。すると「ヤメ」の声が飛んだ。みんなの発声がそろわないのである。「いいか、右手を肩の高さから頭の上に1。そこから左の肩へ2。つぎは元の位置へ3。これを何回も繰り返し教えた。みんなの声がそろったところで斉唱だ。「春は名のみの風の寒さや」。先生は「100点だ」とほめた。学校の思い出である。ちなみに、早春賦は弱起の拍子の曲であることを、最近教えてもらった。今年はウリズンの季節だというのに、寒の戻りだと報道があった。

 ふるさとの思い出には人物もある。1956年に本土に渡航して初めて新聞を読んだ。井の中の蛙が太平洋に飛び立つ気分であった。ある日のこと、大浜信泉という人物が載っていた。驚いたことにその人は石垣島の出身ではないか。本土に居ては沖縄県はふるさとである。八重山も同じだ。とくに多良間からは手に取るように、八重山の連山が見えて、親近感がある。早稲田大学の総長だ。新聞には「人間の価値」について私見が載っていた。一人暮らしの大学の4年間、大浜信泉先生と「天声人語」の新聞のコラムに支えられて卒業した。年前のことであるが、感謝の気持ちは変わらない。

 くしくも、1991年、与那国に赴任した。時を同じくして「大浜信泉記念館」の建設の募金があり、協力した。昨年は記念館を訪れる機会があって遺影に合掌した。

 今、ふるさとのためにがんばっている人を紹介しよう。児童生徒が1年に出席しなければならない日数は、200日だそうだ。松川英文氏は久松小・中学校の子供たちの交通安全を守って15年、3000日、雨・風・寒い日も交差点に立っている。子供にとって車は道路を走る大きなオモチャの感覚でしかないのだ。みんなでふるさとの子供たちを守ってあげよう。宮古のクガニたちに希望の光を与えようではないか。大金持ちにならなくてもいい。普通の暮らしより尊いものはないことを啄木は教えている。

 
 宮古毎日新聞に投稿を始めて10年になります。拙稿は88回。延べ253名の読者の皆さんから叱咤激励を受け、感謝しています。はからずも、この度は私見公論への原稿の依頼がありました。市民感覚で書きます。よろしくお願いします。

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