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美ぎ島net
2012年6月15日(金)22:33

67年前、島に戦争があった/砂川小・西辺小合同平和学習

6年生34人が戦跡巡り追体験


出発を前に「五感、第六感を働かせて見学しよう」と下地治人教諭(右から2人目)=5月23日、大嶽公園駐車場

出発を前に「五感、第六感を働かせて見学しよう」と下地治人教諭(右から2人目)=5月23日、大嶽公園駐車場

 太平洋戦争から67年、島の方々に残る戦跡は風化の一途をたどり、子どもたちは戦争があったことさえ知らずに成長した。小学校社会科研究会の下地治人教諭(砂川小)と下地林教諭(西辺小)は、戦争遺跡を訪ねることで、当時の島の様子や先人たちの暮らしを考えようと先月23日、砂川小・西辺小合同戦跡巡りを行った。上野野原を中心に陸軍中飛行場戦闘指揮所跡や野原越納骨所跡などを見学、子どもたちは初めて見る壕や戦争指揮所などから当時の戦争の様子に思いを巡らせていた。


 時々小雨のぱらつく中、両校の6年生(砂川小22人、西辺小12人)は大嶽城跡公園駐車場に集合。探検バッグの中には社会科ノートやペン、水筒、手袋、デジタルカメラなどを入れ、服装は長袖のシャツに長ズボン、帽子といった重装備。下地治人教諭が、注意事項を話した後で「島にも戦争の影響があった事実を確認してほしい。同時にそのころの島の様子、配属された3万人余の日本軍の実態も知ってほしい」と話した。


壊された中飛行場戦闘指揮所跡について説明をする下地教諭

壊された中飛行場戦闘指揮所跡について説明をする下地教諭

 陸軍中飛行場 戦闘指揮所跡
 近くに造られた滑走路のために用意された指揮所で、外壁はタテヨコ15㍍、高さ3㍍、天井の厚さ1㍍の鉄筋コンクリート造りだったが、終戦に伴い爆破された。現在は鉄筋がむき出しになり、二重の外壁と天井の一部が現存し、中にはコンクリートの固まりが散乱している。薄暗い湿った匂いのする指揮所内に入った子どもたちは、天井から伸びた石灰のつららを写真に収めるなど風化する戦争を思い巡らせていた。

 機関銃座(トーチカ跡)
 今では草むらに隠れたトーチカを探した。飛行場に向けてコンクリートで造った小型陣地は、今や無用の長物となった。下地教諭は「ここに戦跡があります。分かりますか」と草むらを指さすがほとんどの子は気づかず、説明後に不思議そうな顔でのぞき込んでいた。近くの展望台に上り、当時ハの字型に伸びていた2本の飛行場跡を確認した。

 高澤義人さんの歌碑
 野原集落にある歌碑の前では、当時の島の様子や兵士たちの辛苦の日常が垣間見られた。宮古に衛生兵として満州から移動してきた歌人・高澤義人さん(1913-2010)は福島県の生まれ。アメリカ軍優勢の中、空襲、艦砲射撃、マラリヤ、飢餓によって多くの死者が続出した。高澤さんは、亡くなった兵士を荼毘に付す作業に従事したという。歌は「補充兵我も飢えつつ餓死兵の骸焼きし宮古よ八月は地獄」となっている。

 野原越納骨所跡
 1944年末、宮古島には約3万人の日本兵が配置された。当時島の人口は約5万人。ところが、米英軍による制海制空権化にあって本土から食料等の輸送は途絶え、45年3月以降は連日の度重なる空襲で平良の街は焼け野が原になった。将兵は飢餓的状況の中で栄養失調に陥り、あるいは風土病のマラリヤにかかって多くの犠牲者を出した。野原越納骨所にはこうした日本兵2569柱の骨が納められた。後に67年、遺骨は旧平良市二重越の「豊旗の塔」に移された。

  砂川小6年与那覇優佳
 文学碑を見に行った。それには福島県出身の高澤義人と言う人が残した戦争の事実を詠った歌があった。私が思っている戦争とは違うことが書いてあったのでおどろいた。もっと、戦争の事実を知りたいと思った。

  砂川小6年平野麗雄
 これまであるのも知らなかった陸軍中飛行場戦闘指揮所跡や歌碑、トーチカが見られて良かった。歌碑では、高澤さんの詠んだその時の状況は、今の僕には考えられないと思った。

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