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私見公論
2012年8月3日(金)23:35

ふるさと(4)/渡久山 春英

私見公論41


 「ふるさとに入りて先ず心傷むかな 道広くなり 橋もあたらし」

 わかりやすい石川啄木の歌である。その通りだと思う。だれにもふるさとはある。そして、だれも啄木のような心境を経験している。啄木は久しぶりに帰省してふるさとの変容に傷心したことを反省している。昔のままのふるさとではなかった。道路も橋も目を疑うほどに立派になっていた。喜びと同時に一度も帰省しなかった自責の念にかられ、ふるさとを守っている人たちに感謝さえしたのであった。道路と橋とトンネルは地域活性化の大動脈である。今も昔も同じだ。山また山、川また川の地勢ならなおさらであろう。


 いま宮古は大きな転換期を迎えている。第三の大橋伊良部大橋の3540㍍だ。夢にだにしなかった三つの大橋は、21世紀の人たちによって「太平山」の実現を見た。庭園の飛び石のごとく寄り添い、宮古群島を構成した島々は、もう飛ばなくてもいいような、地図の歴史的な文明の象徴である。かつては「いらうとうがに」のロマンの舞台となった伊良部島と平良。そして、戦中は駐屯兵士等の「千鳥なぜ鳴く月の浜」の情緒も、遠くなりつつあるようだが、時代の波には逆らえるものではないふるさとの姿だ。

 桟橋の通行料を支払う時代もあった。離島でありながら池間島の人たちは無料通行であった。平良市民であったからである。伊良部島と来間島と多良間島の人たちは、厳重な水上警察の目の前を通されたものだ。大橋の主航路の部分は一段と盛り上がり、船の上から、橋の上から手を振る光景が早く見たい。亀やエイの遊泳(群泳)も早く見たい。

 もう一つの大きな変転は新築中の宮古病院である。「別のことはいいから早く宮古病院の新築だ」。これは宮古病院の老朽化を知っている市民の声であった。もちろん宮古選出議員もこのことを第一にとりあげていたことは、たのもしかった。10年前に胃の検査をした。その検査室の天井は板がはがれ落ちて穴が開いていた。行政の遅れに怒ったものだ。

 宮古病院の医療に対する指標の中に「インフォームド・コンセント」という項目がある。患者には親切に誠意をもって対応するという意味だそうだ。県立病院の存続か、独立法人化の病院か、いずれにしてもインフォームド・コンセントの域を脱してはなるまい。集いくる患者の、事務処理のパソコン入力の操作まで、医療態勢の一環であるべきだ。

 3番目の大きな変遷は宮古産の農産物の出品である。葉菜類・根菜類・果菜類・果物などが市場や店頭に所狭しとばかりの、にぎわいだ。宮古のふるさと自慢は黒糖の生産である。2010年にはサトウキビ生産で内閣総理大臣賞受賞者が出た。川満長英氏夫妻である。また、勝連栄一氏は県糖業振興協会に2年連続1位の快挙。2人は上野のふるさと自慢である。人頭税の時代に「城間正安」は宮古農業の指導者として、サトウキビを奨励した。爾来、宮古の土壌にはサトウキビが相性よさそうだ。台風時の飛沫との因果関係を話す専門家もいる。

 「いも生産販売組合」の設立は、宮古島のふるさと自慢になりそうだ。歴史は遠く、中国から最初に「いも苗」が入ったのはこの宮古島だそうだ。字東仲宗根に御嶽がある。

 戦後、貧困の宮古は「いも」で命をつないだ。農民は他の作物にも精励し食料の増産に突き進んだ。そんな時代を反映して宮古農林高校は、パイオニア(開拓者)として大地に鍬を振りおろす陸の王者を謳歌した。当時の農業試験場の指導者、故垣花実記先生はサツマイモの新品種の開発に成功。宮古を食糧難から救ってくださった偉業は、希代の人物として宮古のふるさと自慢である。自分の手で土に触れないかぎり、農業者の心を理解することはできない。土壌のPH(酸度)を調べるのに、口で味見した農学博士を思い出す。

 宮古の豊穣を祈願して、故宮国泰誠先生は「見わたせば甘蔗のをばなの出揃ひて 雲海のごとく島をおほへり」を詠まれた。何度唱えても飽きない宮古のふるさと自慢である。

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