私の住まいの履歴書/伊志嶺 敏子
私見公論52
私の生まれた家は、赤瓦葺き木造の平屋であった。その家での記憶は、うすぼんやりとではあるが2歳の頃までさかのぼることができる。その頃、母が肋膜炎を患い床に伏せっていて、かまってもらえない淋しさからか、その部屋の薄暗かったことを憶えている。一年後、母の病も治り、快気祝いと私の3歳祝いとを兼ねて盛大に祝ったことなどはよく憶えている。襖を取り払うと、まるで魔法をかけたようにたちまち家が広くなり、どの部屋も明るくなった。ハレの日の家の思い出は色鮮やかで楽しいものだ。
その後、5歳になると四番目の妹が生まれた。東の六帖間から、その奥へつながる妹の生まれた三帖間まで、朝日がサーっと射し込んでいたのが深く印象に残っている。家の間取り全体を意識するようになったのはこの頃からであろうか、記憶の中の家の領域が広がってくる。
小学校に入学した年に、屋敷内の空いている場所に、父は2軒目の家を建てた。今から思い返すと奇妙な造りの家であった。八帖と六帖のつづき間を基本とした昔からの伝統的な間取りに、不釣り合いなほど立派な洋風の玄関で、まるで取って付けたようなおかしさがあった。当時の父は米軍政府に通訳官として勤めていたことからか、アメリカの文化に影響を受け、一間の間口に両開きのドアのついた玄関を設けることで、かろうじて憧れを実現したのだった。
一方の母は、父の手で進められた家造りには不満であった。「男の考えで造った家は住みづらい」と言い、二十数年後にコンクリート造の家に建て替えるまで、わが家は増改築の連続であった。
確かに、その家は、家長の接客中心の間取りであった。それと比べて、家族のだんらんの場は六帖に広縁付きという程度の狭さであった。接客用の八帖プラス六帖の十四帖に比べて半分の面積ということになる。母の愚痴も無理からぬことではあった。
子どもの私たちはといえば、とにかく新しい家に住まうことがうれしく、今でも青畳と杉の香りの清々しさは鮮やかに記憶に残っている。
その新しい家の東側には、奥行き半間、長さ三間の縁側があり、そこには、2歳年上の姉と私の机が並べられた。初めて自分たちの領域が与えられたのも大変な喜びであった。その後、妹たちが次々と小学校に入り、姉が中学に進む頃、両親は私たち姉妹のために、勉強部屋を増築してくれた。机4台に小さな本箱や、末の妹のおもちゃ箱等を置くといっぱいになる程度の扉なしの小部屋で、今時の子ども部屋のように就寝もできるというような広さではなかった。が、それでも独立した子どもだけの部屋が与えられて、私たちは大満足であった。
そのうち姉が高校に入学すると、祖母の居る離れにある空き部屋を姉の個室として与えられた。私たちはその部屋を「受験生の部屋」などと呼び、特権的で憧れの場所であった。そしてその部屋は、姉妹が代々と引き継いでいった。これがわが家では初めての個室であった。妹の私たちはベッドのある姉の個室が羨ましく、時々姉妹皆でそこで遊んだりした。ところが母はこともあろうか、子どもたちがその部屋にいることを嫌った。子どもたちが部屋に引きこもって家のことに無関心になることを恐れたからである。
「カヤの外」、わが家ではこの言葉は非常に悪い事として、母は子どもたちの意識に強く植え付けたのだった。受験生のわが子に理想的な学習環境を与えたはずだったのに、子どもたちの予想外の展開に、若い母はすっかり戸惑いあせってしまったのだろうか。そのジレンマの中で、ハードの欠陥はソフトでカバーする、とばかりに「カヤの外」=無関心=許し難い事、と号令をかけたのだと思われる。母は子育てに無我夢中だった。
ほんの一部にすぎないのだが、自分の居住歴を書いてみた。書いてみると、住まいと家族、自分の生きる姿との関わりを意識することになる。綿々と連なる暮らし、その器としての住まいについて考えを深める手立てともなっている。