忘れない65年前のあの日/「慰霊の日」特集
「死ぬか、逃げるか」/たこつぼの中で死と直面
21歳で徴兵された。それまでは、平良西原で漁師をしながら、母親や妹2人で貧しいながらも平和に暮らしていた。入隊したのは宮古島の守備についていた歩兵第3連隊。下地で寝泊まりし、米軍の上陸に緊張が高まる日々。米軍の艦砲射撃を浴びたり戦闘機の爆撃を受けたりしたが奇跡的に一命を取り止めた。「死ぬべきか、降参するべきか、後を向いて逃げるべきか。迷いに迷ったが、とにかく死にたくはなかった」
当時は、下地のヤーバリヤマから来間が見渡せた。昼間に不寝番をしていた時、米軍の艦隊が見えた。「本などでは18隻だったとあるが、戦艦や駆逐艦と思われるのがはっきりと見えた。『来たなー』と思った瞬間、砲が動いた」
頭上を弾丸がかすめる「ヒューッ、ヒューッ」との音が聞こえた。「恐ろしいやら気持ち悪いやら…。鉄かぶとはしていたがそんなものは何の役にも立たない」。個人用の小さな壕「たこつぼ」の中で、ぶるぶると震えていた。
爆弾がすぐ側で落ちたこともある。これもたこつぼの中だった。上空から数機の戦闘機が飛来、その内の1機から爆弾が投下されるのが見えた。「これは俺に命中するなと思った瞬間、爆風で気を失った」
土に埋もれながら「俺は死んでいるのかと思った。しばらくして『仲本がやられました』という声が聞こえた。それで俺は生きていると思った」
土の中から2~3人の兵隊に引っ張り上げられたことを覚えている。唇が切れ血がだらだらと流れ、顔は死人のように青くなっていた。「助けてくれた兵隊がみんな後ずさりした。それほど、ひどい顔だったんだろう」
米軍の上陸に備え、M3中戦車やM4中戦車を破壊するための訓練をした。戦車に向かって、2㍍のひもの先に付いた爆弾を投げる。最初は5㌔だったが、米軍の戦車の性能に合わせて10㌔爆弾に変わった。対戦車肉薄攻撃班と呼ばれ、選ばれた6人の中に入った。
「投げたらすぐにひもを抜く。これが瞬発信管だから2㍍先でバンとなる」。実戦には使われなかったが「自爆と同じ。死ねと言っているのと同じだと思った」
戦争が終わると捕虜となり、アメリカに連れて行かれると思ったが、そうではなかった。「芋や粟を作って私の帰りを待っていてくれた母親と再会した時には、九死に一生を得たと実感した」
当時体験した悲惨なことは、積極的に話そうとは思わない。しかし、「忘れようにも忘れることはできない」ともいう。「年々、同世代の人たちが亡くなり戦争体験者は少なくなっていく。私の体験談が、少しでも平和をつくる世の中のためになれば」(聞き手・平良幹雄)
仲本 勇光さん(なかもと・ゆうこう)1924(大正13)年12月31日生まれ。85歳。平良西原出身。73年から旧平良市議を連続3期、81年から副議長1期務める。70歳から書道を始め現在も書き続けている。72歳の時に漢字「千字文」に挑戦。約3カ月間かけて仕上げた大作は全宮古書道展で「平良市長賞」を受賞した。