心の風景/下地 暁
私見公論57
4男2女の6人兄弟の末っ子として生まれた私。
当時は貧富の差が激しく内地よりも沖縄、沖縄よりも宮古、そして平良よりも城辺と、パリヤー(田舎)だった下地家は、その中でも特に貧しい家庭でした。
スラブヤー(コンクリート家)、アカガーラヤー(赤瓦家)、スッスゥガーラヤー(白瓦家)、カヤヤー(茅葺家)と、家の造りにもウヤキ(裕福)の差が見え、カヤヤーだった貧しいわが家は台風襲来のたびにコンクリート造りのブンミャー(公民館)や近所のスラブヤーなどに避難をしていました。そうカヤヤーだったわが家は、台風のたびに屋根の茅が吹き飛ばされ、時には年に2度3度と新築?!をしていました。今となってみれば笑い話にもなります。
そんな貧しい環境でしたので冬の寒さをしのぐ布団も、チョーチンガーと呼ばれる肥料袋やボロ布をおふくろが縫い合わせて作ったお手製のものでした。素材が素材だけに決して温かくない布団ですが、そんなおふくろの想いは私の心を温かくしてくれました。そのおかげか、布団に対する私のイメージは〝重い布団は温かい〟になっていて、軽い布団が主流になった今でも、重みのある布団を好んでしまいます。幼少期に染みついた記憶や感覚というのは、どんなに年を重ねても簡単にかき消すことはできないと痛感します。
さて、当時の下地家で大変だったのは建物ばかりではありません。
まだ、電気・ガス・水道の整備も十分ではなかったので、私は家から200㍍ほど離れた井戸まで水汲みに行ったり、炊事やお風呂に使う薪を拾いに行ったりもしていました。
井戸では水面に映る自分の顔が面白くて、笑ってみたり、怒ってみたり、子供ならではの容顔を楽しんでいましたが、薪拾いではヘビに出くわし一目散に逃げて帰ったことを思い出します。
また、もちろん電気もないので、灯りといったら石油ランプ。…が、しかし鼻の中が真っ黒になるので大変でした。
こうして私が幼少の頃の話をすると大抵の方が「いつの時代の話?」と驚かれます。いやいや、これが本当に私の幼少期の生活だったんです。そこには貧しかったわが家の実情もありますが、やはり中央から遠く離れた宮古島のインフラが現在のように便利になったのも、ここ数十年と言っても過言でないと思います。
幼少の頃、とにかくいつでもおふくろと一緒で、月に一度、大浦にあった診療所に行くのが何よりもの楽しみでした。西城(キャーギ)から当時の城辺協栄バスに乗って一路平良へと行き、そこから市内を歩いて今度は八千代バスに乗り大浦へ。診療といっても注射を打つだけで、終わったあとは、まだ埋め立てられていなかった干潟の海沿いの木陰でおふくろと並んで座り、弁当箱の代わりにサバ缶に詰めたお芋を分け合いながら、のんびりと帰りのバスを待つ。このひとときが何とも至福の時でした。
末っ子とは言え兄弟が多かったので、おふくろと二人だけで過ごす時間は、おふくろを独り占めしているようで幼心にも安心感で満たされていたのです。貧しく不便な暮らしの中でも、おふくろはいつも大きくて豊かな心で接してくれていました。そして貧しいながらも工夫をし私たちを育ててくれました。
中学入学の時、学生服を買ってもらうこともできず、黒い半ズボンに黒い生地を継ぎ足して長ズボンにしてくれたおふくろ。しばらくはそれで通学していましたが、当時沖縄本島で生活をしていた兄妹が弟にだけは…そんな思いからなのかお金を出し合い学生服とカバンを買って送ってくれたことを今でも鮮明に憶えています。思い返せば切なくも笑い話にさえなる幼少期。苦労を苦労とも思わない豪放磊落なおふくろに、貧しいながらも愛情いっぱいに育てられました。それは大きく変貌を遂げた現在のこの島で、決して失われることのない心の風景として、これからも創作活動の原点としてまた生きる糧として、いつまでもどこまでも大切にしたいと思う。
下地 暁(しもじ・さとる) 1957年生まれ。宮古島市城辺出身。宮古高校卒業。92年、歌を通し故郷の方言を次世代へつなげようと、東京から宮古島に活動拠点を移して今年21年。アルバム「オトーリ」発売。音楽活動を軸にプロデュース、ラジオパーソナリティー、クイチャーフェスティバル実行委員長、宮古島大使など。沖縄県文化協会奨励賞受賞。