「恩師の家族捜して」/台湾から下地市長に手紙
地在の羽地芳子さん/子どもたちの所在捜し当てる
「恩師の松川浩先生、あるいは家族を捜しています。現住所が分かれば教えてください」-。14日、下地敏彦市長宛てにそんな内容の手紙が届いた。差出人は、台湾高雄市岡山区に住む戴文凱さん(78)。勉強を教わった恩師に、お礼をしたいとの思いを伝えた。
松川さんは太平洋戦争が終わる前年の1944年、台湾高雄永安区永安小学校長を務めていた。生きていたら、約百歳。戦後は宮古島の下地川満180番地に住んでいた。
台湾出身の羽地芳子さんが手紙をつてに同日、松川さんの家族を捜し当てた。長女の真栄田昭子さん(85)は、父の実家隣りの川満に住む。次男浩二さん(宜野湾市)、次女の金城絹枝さん(下地川満)、三男勝行さん(兵庫県)の4姉弟が健在だ。
父浩さんは50年ほど前に、母登枝子さんは27年前に85歳で他界した。手紙を見た昭子さんは、台湾に父を慕う人がいることに、感無量の様子だった。
手紙の舞台は、終戦直後の台湾にさかのぼる。松川さんは日本が台湾の統治権を失ったことで、校長職を失い苦しい生活を余儀なくされた。そんな時、戴さんの父が、子どもたちの家庭教師に招いた。戴さんは当時、小学2年生。兄弟が数学などを学んだ。
戦後、松川さんが宮古から大学生の戴さんに宛てた葉書には「幾月かの間あの2階で、一緒に勉強し又寝た事などが思い出されます」と幼いころの戴さんとの触れ合いをしのんだ。
戴さんは現在、高雄県医師会理事長の要職に就く。「松川さんの教えもあり、医者になれた」と感謝する。
松川さんは師範学校を卒業後、結婚して台湾に渡り、昭子さんら姉弟は全員、台湾で生まれた。昭子さんは、台湾にあった淑徳高等女学校を卒業した。父が教職の時は、不自由ない生活だった。
終戦後は一転、どん底の生活に陥った。台湾の金持ちの人から、食糧を分けてもらうなどしてしのいだという。当時の苦しみが胸につかえたのか、インタビューの途中涙をぽろぽろ流した。
松川さん一家は、終戦翌年の1946年宮古に引き上げた。松川さんは農業を2年ほどして、盛島明得下地町長に請われ、助役を務め任期途中に亡くなった。昭子さんは「うそのつけない正直な人だった」と亡き父をしのぶ。