地域の愛に包まれて大人になった僕の夢(5)/濱元 雅浩
私見公論76
この連載の機会を得て「地域と僕」というテーマを設定してしまったおかげで、この数カ月、子どもの頃の体験や感情をいろいろと掘り起こす作業をすることとなった(と書くと大層な話だが、ただただ酒座での思い出話をたった一人で膨らませていく程度のことのようにも感じるが)。この作業の中で僕にひとつの困惑が浮かんできた。それは連載のタイトルにも使っている「大人」というフレーズに引っかかりを感じるということ。確かに僕も成長をして「大きな人」になったのは事実だし、それなりに年を重ねて妻も子もいて、会社に出勤をして給与も得ている点などで子どもではなくなっているので、それじゃあ「大人」ということになるのだろう。でもなぜか、何となく違和感を覚えてしまう。
子どもの頃の僕の夢は「はやく大人になる」ことだった。男性でも女性でも、大人っていろいろなことを自分で判断できるし、社会もそれを認めてくれているような、そんな自立感に憧れていたのだ。「大人ってかっけ~な~」って。そんな憧れがあったからか、いま僕は「本当に大人になれているのだろうか」と考える。「社会に役立つ大人として認められる存在なのだろうか」と。なんか、暗い文章になってきましたが、僕はいたって元気です。眉間にしわ寄せて考えているんではなく、元気ハツラツに笑顔でぼんやりと考えいるだけです。あくまでも前向きにです。
そんな僕のプチ悩みをひもとく糸口となった言葉に「経世済民~世を経(おさ)め、民を済(すく)う~」がありました。世の中を上手くおさめて人々を苦しみから救うというこの四字熟語が「経済」の語源となったようだ。この言葉を眺めていると、経営者としての僕の本義はもちろん「利益の追求」にあるが、一方、経済人としての僕の本義は「経世済民」を実現することにあるのではないかと思い始めた。こんな感じの社会への思いを芯に持った人たちに、子どもの僕は「大人だな~」と憧れていたのではないかと気付いた。気付いたからにはチャレンジするしかない。この連載の機会を得て「地域と僕」というテーマを設定してしまったおかげで、この数カ月で僕は少しだけ「大人」に近づいたような気がする。
そんなことをあれこれ考えていると、NPOアサザ基金の飯島博さんと話したとき、これからは「行政参加」が重要なキーワードになるという言葉を思い出した。いわく「本来は市民自身が自主的に考え、行動すべき市民課題についてまでも行政頼みになってしまい、市民の顧客意識だけが高まっているのではないか。これからは市民主導で行政参加を求めていく流れをつくらなければいけない」という趣意だった。
また、僕の大好きな社会学者の宮台真司さんも『「任せる政治」から「引き受ける政治」へ』というメッセージを発信し、「国や行政にすべてを丸投げしておいてクレームだけはちゃんと言う市民ではなく、市民課題を市民社会が積極的に引き受けていき行政判断や決定過程にも関わっていくことが、豊かな市民社会を構築するために必要だ」と述べている。
ここで気をつけなければならないのは、両氏の意見を直接民主制や衆愚政治と読み違えてはいけない。「市民が主体となって行政参加を求める」ことも「引き受ける政治」も、「経世済民」の思いのもとに大人の責任として関わっていくということだと僕は感じている。その思いの連なりが豊かな地域をつくっていくのだろうと。
僕の大人観を書いてみたら、いつになく固い原稿になってしまいましたが、そんなもろもろを抱えて、それでも明るく楽しく元気よく生きていくのが「素敵な大人」なのかなと思う夏本番の今日この頃。国政選挙もスタートしたことで、少し背伸びをした原稿になってしまったのかなと思いながらも、連載最終原稿はできる限り大人っぽくお届けしました。これまで紆余曲折の稚拙な文章にお付合いいただいた皆さまに感謝いたします。