企画・連載行雲流水
2014年2月8日(土)8:50
シートーヤー(行雲流水)
宮古毎日新聞の創刊者であり社主であった真栄城徳松は、琉球立法院議員でもあった。ずいぶん前の話になるが、真栄城が立法院議員として琉球の政治に深く関わっていたころの宮古島の製糖は近代産業というには程遠いものであった
▼1958(昭和33)年ごろの宮古島はシートーヤー(小規模製糖工場)最盛の時期で集落ごとにあったと思えるくらい、その数240余と言われている。シートーヤーのサトウキビ圧搾動力は縦式3連鉄車の中央の車に取り付けられた一本の軸木を馬にひかせる仕組みで効率が悪く歩留まりは6割程度、処理能力もせいぜい10㌧であった
▼真栄城が小型製糖工場の撤廃を政治課題としたのは1956(昭和31)年11月末琉球政府経済局で時の琉球農業協同組合連合会会長とのやり取りのなかで決定的なものとなった。立法院一期目のなり立て議員が小型製糖工場を無くし、大型工場をあとひとつ造るというのである
▼あとひとつというのは、450㌧の処理能力を持った沖縄製糖宮古工場が再興され順調に操業していたからである。真栄城にとって大きな壁が立ちふさがったのは想像に難くない。加えてシートーヤーの主や砂糖商人たちの猛烈な反対は彼の政治生命を脅かしかねないほどであった
▼しかし、疲弊した農家の所得を向上させるという真栄城の政治理念が揺らぐことはなかった
▼琉球農業協同組合連合会会長山城栄徳との出会いから3年にして宮古製糖設立総会が開かれ、1960(昭和35)年10月25日には宮古製糖工場のボイラーに火がはいった。以来、製糖会社2社による砂糖生産が宮古島の経済を支えている。(凡)