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ペン遊・ペン楽
2014年2月13日(木)8:55

篠原鳳作と二季会/瑞慶山 昇

2014.2.13 ペン遊ペン楽

 3年ほど前から、宮古の絵画同人「二季会」を創立した画家たちについて調べている。「二季会」誕生までの過程で、縦糸と横糸が折り重なるように、幾人もの人と人とが関わり合っていたことが分かってきた。

 「二季会」は、旧制県立宮古中学校(現在の県立宮古高等学校。以下「宮中」で記載)の卒業生等が、1956(昭和31)年に創立し、1963(昭和38)年までの約8年間で、12回の展覧会を開催するなど、戦後宮古の芸術振興に大きく貢献したグループである。

 「二季会」は、1964年から22年間休会となっていたが、1986(昭和61)年に下地明増の強い働きかけで、新メンバーが加わり活動を再開した。現在も、砂川幸夫氏が会長を務め活動を続けている。

 「二季会」は、戦後に結成された沖縄の美術グループの中で、沖縄本島で安次嶺金正や玉那覇正吉、安谷屋正義らによって結成された「五人展」につぐもので、「五人展」は1954(昭和29)年に解散しているから、「二季会」は現在活動を行っている県内で最も歴史のある美術グループということになる。

 「二季会」について興味深い点は、創立当初の会員たちが、絵の具はもちろんキャンバスなど画材の入手さえ困難な当時の宮古島で、真剣に創作活動に取り組み、着実に力をつけていったことである。下地明増、本村恵清、平野長伴、大宜見猛、下地充、川満進の6名でスタートした「二季会」は、第2回展で池村恒仁と砂川隆之の2名が加わり8名の会員となった。さらに1958(昭和33)年の第5回展には、喜納久子が加わりこの年に開催された第回沖展において、メンバー7人が入選するなど、会員の実力は着実に向上していった。この快挙は、当時の新聞で取りあげられ「二季会」の活動が、沖展運営委員等から高く評価された。

 「二季会」は創立当初メンバー8名中、7名が宮中出身で、彼らと絵画の接点を調べると、鹿児島県出身で東京帝国大学を卒業後、1931(昭和6)年から約3年半、宮中で教師を勤めた篠原鳳作にたどり着く。鳳作は公民と英語の教師であったが、図画(美術)教師の欠員に伴い、専科外であった図画の指導を約7カ月担当した。学生たちから尊敬され、強い影響力を持っていた鳳作が、図画を指導したことから、宮中に絵画ブームが起き、学生たちは絵に熱中した。鳳作は、学生たちに絵の魅力を語り、校外でスケッチを行わせるなど熱心に指導を行っている。

 また、学生たちの作品展を開催し、発表の機会と場を与えた。鳳作によって育まれた、学生たちの絵画への情熱は、戦争によって一旦途切れたが、戦後、熱い思いを持ち続けた教え子たちが集い「二季会」は結成された。

 「二季会」の活動は、県内の美術活動の中でも特異な存在で、宮古の芸術活動の一時代を象徴する貴重なものである。現在、下地明増の作品は、宮古島市総合博物館で保管されているが、本村恵清や平野長伴等の作品についても、宮古島市が収集し文化遺産として、後世に残し伝えることが必要であると考える。
※文中、氏名の敬称は略させていただきました。
(沖縄県立美術館副館長)

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