深海を開拓した佐良浜の漁業者たち/長嶺 巖
「木を見て森を見ず」からの発想の転換
私見公論83
昭和56年宮古支庁農林水産課水産係に配属されてすぐに、平良市水産課から浮魚礁(パヤオ)を設置する話が舞い込んだ。私は水産業務は初めてだったので浮魚礁とはどういうものかまったく予備知識すらなかった。浮魚礁は、流木にカツオなど回遊魚が付くことを参考に孟宗竹でイカダを作り海面にロープで固定して集魚効果を図ることを市水産課の担当者から説明を受けてカツオ漁船の漁労長だった祖父の話(流れ木を見つけるとカツオは大漁)を思い出した。流れ木をロープで固定するという斬新な発想に驚嘆し早速一緒に取り組むことになった。同年7月に孟宗竹で6㍍×6㍍の浮魚礁を制作し八重干瀬沖の水深60㍍に池間漁協のフェリー「なかと」を利用して設置したものの台風襲来によって1週間ほどで流出してしまった。その時は台風には勝てないと残念がったが流出の原因は何かを考えなかった。昭和57年5月、伊良部町漁協が浮漁礁を設置する計画があるので検討会に参加してほしいと町水産課武富進課長から連絡を受けた。検討会にはカツオ漁船の漁労長や曳き縄漁船の船長、南方カツオ漁業から帰ってきた若い漁業者たちの伊良部町漁協小型船主会の面々が集まった。検討会ではパヤオの設置海域をどこにするか。台風に流されないための構造、安全な設置方法などが話し合われた。パヤオの設置海域を決めるとき、曳き縄漁船長福丸の船長前里定吉さん、海力丸船長池間邦夫さん、第三豊丸船長中村正人さんから曳き縄漁場はスウーダイ(潮目)を中心に操業するとカツオ、マグロがよく釣れるとの話があった。そこで、海図を持ってきてもらい、皆さんがいつも操業している場所を海図に落としてもらったところ潮目ができる場所は海底地形に共通点があることが分かった。
伊良部島北の海底地形は沖縄トラフと呼ばれる水深2000㍍の深い海域から急に1000㍍の海域に駆け上がる海底に壁があり海流が壁にあたって上昇し潮目(湧昇流)が発生する。そこにプランクトンや小魚が集まり餌を求めてカツオ・マグロなどの回遊魚が多い好漁場になるという意見がでて水深900㍍から1000㍍の場所に設置することで一致した。昭和57年8月5日伊良部町漁協が水深982㍍に設置したパヤオに2週間後カツオ、マグロが大量に集魚していることが確認され豊漁に島中が湧いた。パヤオが設置されるまでは、午前2時頃に佐良浜漁港を出港して夕方まで一日中魚群を探して走り回っていたため燃料費が莫大で経営は厳しかった。パヤオ設置後は直線で漁場に行けば時間の短縮、燃料費の節約など省エネ漁業に転換することができ漁業の効率化が図られ、若い漁業者も参入するようになった。パヤオを設置した当時、伊良部町漁協のパヤオからの水揚高は133㌧、33、049千円、31年後の今日では941㌧、179、000千円の実績である。
さらに、伊良部漁協のパヤオは沖縄県全体に波及し平成25年には202基が設置され水揚高は2762㌧金額にして21億5千万円の実績となり沖縄県の基幹漁業に成長した。
伊良部漁協が沖縄県下で最初にパヤオ漁業を成功させた要因は何かを考えてみると、検討会を通して漁業者の長年培った経験と知恵、みんなの意見を大切にして客観的にものごとをとらえ組織的に取り組むことが成功の秘訣であることを証明してみせた。私たちは物事に取り組む時往々にして主観的な見方で突っ走ることが多い。「木を見て森を見ず」一本の木のまわりに大きな森があることを忘れずにいろいろな角度から検証して物事に取り組むことの重要性を改めて感じているところである。おわりに、2015年1月に念願の伊良部大橋開通に向けて、伊良部漁協の近くに、「パヤオ発祥の地」記念碑を建て、「パヤオからの魚直売センター」ができればと念願するものであります。
長嶺 巖(ながみね・いわお) 1950年生まれ。宮古島市池間島出身。千葉商科大学商経学部卒業後、宮古福祉事務所、沖縄県水産業改良普及センター、宮古農林水産振興センターなどで主に水産技師として勤務。2011年退職を機に漁船第三拓漁丸(4・3㌧)を購入、底魚一本釣漁業を開始する。12年7月から池間漁業協同組合代表理事組合長就任。