「人の不幸な運命はその人の強い改善の意思によって好転できる」
沖縄国際大学名誉教授 福里盛雄
1 人の運命とは
運命とは、漢字で書くと命を運ぶと書きます。その意味は辞典によると、めぐり合わせ、運、吉凶禍福と説明されています。
運命とは、自分の選択意思によらずに、その人の意思とは無関係に、人生のさまざまな吉凶禍福に遭遇する場合もある。そのときは、私たちはこれが私の運命だと、従順に受け入れて諦めた心地で、その中で一生を過ごす傾向があります。そのような性格の人は、何事に対しても悲観的態度をとります。悲観主義は気分で、悲しい運命にめぐり合うと気分的に悲しくなり、その中で諦めて浸ってしまいます。これでは事態は一つも好転しないままです。
その考えに対して、今の悲しみ、困難な状況は、何とか努力すれば改善できるという考え方が楽観主義である。今の困難な状況を必ずよい方向に展開する力は、自分の意思や変えようとする欲求の強弱にかかっていると考え、変えようとする欲求をますます強くします。
聖書にバルトマイという盲人の物語があります。彼は道端で乞食生活をしていました。道行く人の恵みに頼って生きる不安定な生活に嫌気を起こし、自分の目が見えるようにさえなれば乞食生活から解放され、自分の力で生きていくことができるし、さらに他人のためにも良い助け手となることができるという考えを抱くようになった。イエスがこの道を通られると聞いて、何とか、イエスのあわれみの恵みを受けたいと決心しました。彼は、イエス様の弟子たちの制止を払い抜けて、「イエス様、私をあわれんでください」と大声で叫び続けて、イエス様のあわれみによって彼の目は見えるようになったのです。イエスは、彼に「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言ったという内容の物語です。
2 人は自分の悲しい運命を、いかにして好転させることができるでしょうか
悲しい不幸な運命を変える力を持っている人もいます。彼らは、どんな悲しい状況に取り囲まれても絶望することなく、何とか好転させることができると楽観的に考えます。物事を悲観的にとらえるか、楽観的にとらえるかは、その人の考えに左右されると思います。
物事を悲観的にとらえる人は、不幸なことが起きたとき、すぐ悲観的に考え、改善の方策を見つけ出そうと努力することを諦めてしまい、その悲しい不幸な状況の中に埋没し、その中で安住してしまいます。物事を悲観的に考える人の悲しみの根源はそこにあるのです。ところが、物事を楽観的に考える習性の人は、何とか今の悲しい状態から脱出する方法を見つけ出すことができると確信し、その方法をつくり出す努力を致します。たといその方策に失敗したとしても、また別の方策を考えればいいんだと気楽な考え方をします。失敗を何回繰り返しても、その失敗した度数に比例して成功に近づいていると考える。そして、失敗の繰り返しによって、最終的に成功に到達できるのです。「失敗」は、「成功の母である」と楽観的に考えることが大切であります。
私たちの人生は、よいことよりも不幸で悲しいことが多く起きます。そのような不幸な状態も、私たちの創造主を愛し、信頼すれば、必ず最終的には、その不幸な運命も歓喜に変えてくださるという信仰を持って、楽観的に生きていけば、私たちの不幸な運命も好転させることができるのではないでしょうか。私たちは、自分の運の悪さを嘆く代わりに、忍耐を持って、それを好転させていく知恵を持ち続けたいものです。