垣花 泰之さん(54歳)/医師・鹿児島大学病院 集中治療部副部長
活躍する最後の国費生
本土復帰も遠くなり、若い世代には知らぬ向きも多いと思うが、垣花さんは最後の「国費生」だ。
正確には「国費・自費学生制度」と言い、琉球復興のために緊急に必要な人材を養成するという趣旨で昭和28年に設けられた制度だ。県内の選抜試験に合格すれば、日本政府による学費援助だけでなく、本土の国立大学に定員枠外で入学を許可されるという特異な制度だった。
島からの雄飛を志す沖縄の若者にとっては憧れの的で、勢い選抜試験の倍率は20~30倍と厳しいものだった。しかし本土復帰後は定員が年々縮小され、1980年度を最後に廃止された。その最終年度に垣花さんは合格した。当時を振り返り垣花さんは「廃止の前年度に1度落ちているんです。でも高校の部活などで勉強が足りていないことは分かっていましたので、最終年度は頑張りました」と語る。
そして医学部志望で鹿児島大学に入学、医師を目指して研鑽(けんさん)に励む。さらに卒業後も北海道大学やドイツなどにも留学、医師としてのキャリアを積み重ねる。その後、鹿児島大学に戻り、2012年に教授となる。
現在は同大学病院の集中治療部副部長として治療はもとより、治療の効果向上を図った新ICUの設計などにも取り組んでおり「患者のプライバシー重視」をコンセプトにした施策は、先進施策として医療専門誌でも紹介されている。他、多忙を縫って沖縄の医療関係者を対象に講演を行ったり、後進の指導を通じて沖縄の医療向上にも努めている。
そんな垣花さんだが、なぜか歩みの折に卓球がつきまとう。高校時代の部活に始まり、大学や、医師となっても卓球を続けている。その腕前は医療従事者の全日本大会で優勝したほどだ。医者の健康保持?と思いきや、それだけではないようで垣花さんいわく「卓球を続ける過程で、高校、大学、医師になってからも多くの知人・友人を得ました。その中で人間関係の大切さを学び、仕事への影響を知りました。例えばドイツに留学した際などは、右も左も知らぬ中、卓球で知り得た人々を通じて仕事の広がりを得たと言っても過言ではありません。その関係を築く基礎が高校の部活だった気がします」と語り、だから大学入試の足かせになったことにも悔いはないという。
その故郷の友人たちと久しぶりに再会する機会が4日にあった。宮古卓球協会の先嶋親善50周年という節目の祝いに駆け付けたのだ。医師という立場を超えて、人を大切に思う垣花さん。さぞ「今宵こそは」と美酒に酔いしれたことであろう。
垣花泰之(かきはな・やすゆき)1959(昭和34)年10月7日生まれ。平一小、平良中、宮古高校、鹿児島大学卒業。知子夫人との間に1男2女。