盛島明長氏の胸像移転/宮高校庭に
関係者出席し除幕/教育振興への決意新た
1928年に現宮古高校の前身となる宮古中学校の創設に尽力した故盛島明長氏の胸像が14日、旧宮古神社敷地から宮古高校玄関前の校庭に移転された。同日の除幕式には移転実行委員会の役員や教育関係者多数が出席し、盛島氏の功績をたたえながら教育行政のさらなる発展を誓い合った。
除幕式では、宮古高校の校歌を斉唱した後、実行委員会の真榮城忠之事務局長が経過報告を行った。
続いて実行委員会の下地常之会長が「宮古高校の生徒は素直で礼儀正しい。これも盛島先生が苦労してこの学校を創設したからだと思う」と感慨深く話して胸像の移転を喜んだ。
この後、下地会長、下地敏彦市長、宮古高校の本村博之校長、同校生徒会の池間翔会長、南秀同窓会の仲地清成会長、親族代表の下地昭雄さんが胸像の除幕を行った。胸像が現れると大きな拍手が上がった。
記念植樹の後、胸像移転に関わった琉興建設、宮古総合開発、宮古高校PTAに感謝状が贈呈された。
引き続き開かれた懇談会で実行委員会の顧問の下地市長は「盛島先生は人材育成こそが島を発展させる最も重要なことだとして熱い情熱で諸々の施策の実現に奔走された」と強調。「この功績と意志を子々孫々まで伝えることが人材の育成につながる」と述べた。
親族の下地さんは「祖父は宮古中学校の設立に向けて並々ならぬ熱意と行動力を持ち、当時の県議会の反対派までも動かしたと聞いている」と紹介。その上で祖父の胸像移転に尽力した関係者に感謝を込めた。
本村校長は「盛島明長氏の志を継承し、本校教育の発展にまい進したい」と決意の言葉を述べた。
市教育委員会の宮國博教育長と沖縄宮古郷友連合会の古波蔵和夫会長は乾杯の音頭を取り、胸像移転に対する喜びを語った。
盛島氏は1880(明治13)年、下地地区の洲鎌で生まれた。その後、宮古島高等小学校を経て県師範学校に入学。1902年に卒業し、04年には長崎医学専門学校へ進んだ。09年に当時の平良村西里に盛島病院を開業。11年に初代宮古郡医師会長に就任した。
17年に県議会議員に初当選、5期務めた。36年には衆議院議員選に当選。宮古初の国会議員となった。
24年に結成された宮古中学校設立期成会の会長に就任。その後28年に同校設立案が県議会を通過し、同年の開校に至った。
盛島氏はそのほか、製糖工場の誘致や宮古高等女学校の県立移管など数々の実績を収めている。
41年3月24日に死去。享年62歳。65年に旧宮古地方庁前庭に盛島明長胸像が建立された。その後、旧宮古神社境内に移転されたが同神社の新築移転に伴い境内にそのまま残された。これを受けて南秀同窓会が中心になって動き出し、宮古高校への移転を目的に実行委員会が結成された。