行雲流水
2015年3月14日(土)8:55
「川崎少年事件」(行雲流水)
3月11日、東日本大震災4周年。午後9時ラジオのスイッチを入れるとNHKの「震災4年特集」が流れていた。大津波で子や孫をなくした親や祖母の悲しみ、悔しさの手紙を朗読するアナウンサーの静かな声が聞こえてきた。父や母を失った子の親を想う手紙も紹介される
▼悲しみ、悔しさ、寂しさの滲む手紙には懸命に生きる姿が伝わる。ありのままの生活を大切にし、人への感謝の気持ちも忘れない三陸の人々の健気さと優しさが胸を打つ
▼当時、高校1年だった女性は学校に行く朝に祖母と喧嘩して、それが最後になってしまったと悔やむ。孫をなくした祖母は慰めの言葉すら受け入れられず、声をかけた人を憎む心の鬼をどうしようもないと嘆く、普段の暮らしのなかで当たり前であったことがある日を境に当たり前でなくなってしまうことの酷(むご)さを思わずにおれない
▼それは、川崎市多摩川河川敷の事件も同じだ。被害にあった13歳の少年の母親は、帰らぬわが子に「どれほど怖かっただろうか、どれほど痛かっただろうか」と涙しながら「河川敷に献花してくださった皆様、捜査に尽力いただいている警察関係者の方に、厚くお礼と感謝申し上げます」と悲しみの中でも感謝の心を忘れない。それがごく普通の日本の母親だろう
▼日がたつにつれて事件の様相が明らかになってくるといろんなことが新聞やインターネットで言われるようになったなかで「加害少年の権利」には唖然とした
▼大人と見まがう18歳の加害者を実名の顔写真入りで報道した週刊誌は少年法に違反し、少年の権利を侵すと批判する。加害者の権利を擁護するのは虐げたられた者を貶めるだけだ。