行雲流水
2015年5月5日(火)8:58
「宮古民謡の先師・友利明令」(行雲流水)
小禄恵良氏は『芸能の系譜』(全四巻)を出版しているが、彼の資料収集の能力には驚く。膨大な芸能関係の各種資料に加えて、宮古芸能の系譜に連なる郷土史家や民謡歌手、舞踊家や学校音楽関係者に至るまで、取り上げられた人は146人に及ぶ
▼ところで、小禄氏は『芸能の系譜』を宮古島民謡の先師として、友利明令に捧げており、友利の生い立ちや活躍などを、エピソードを交えて詳しく記録している
▼それによると、友利は、幼少の時に両親を亡くした不遇のうちに役場の小使い(雑用係)をしている時、当時医師会会長だった盛島明長と会い、「文検」を受けて教員になる道のあることを教えられ、励まされる。彼は刻苦勉励、独学で教員の資格を取り、代用教員から、次第に昇任、後に名校長として名声を馳(は)せるようになる
▼時に、東京へ行く機会があり、池村恵信と天久恵秀の3人で民謡のレコード化を図る。友利は、「軍歌が流行する前にアヤグを歌いたい」と言い、昭和9年、天久恵秀のピアノ伴奏で「豆が花」等を歌い、レコーディングを実現する
▼戦後は、古堅宗雄と平良恵清とともに、近代宮古民謡の基礎を築いた御三家と呼ばれ、民謡を「工工四」に記録するなど、その普及に努めた
▼友利明令は、忍びよる軍国主義のおぞましさをいち早く感じ取り、戦後は野原越裏にある日本軍の納骨堂側の家に住み、戦没者の霊を慰めた。歌が上手で、民謡に造詣が深いだけではない。その高潔な人柄と深い精神性の故に、人々から慕われ、尊敬されたのではないか。