「戦争ない平和な生活を」/糸満市摩文仁
「平和の礎」で冥福祈る/在沖宮古郷友
【那覇支社】慰霊の日の23日、糸満市摩文仁にある平和祈念公園の「平和の礎」には、今年も多くの在沖宮古郷友の遺族や親戚などが早朝から訪れ、戦没者の名前を刻んだ礎の前に花やお茶を手向けて、冥福を祈り手を合わせていた。
宮古島市に住む新里康子さん(78)=上野字新里=は戦後70年の節目に合わせ、亡き父親(新里峰男さん)が待つ「平和の礎」を初めて訪ね、刻銘され
た名前を手で優しくなぞった。
家族は7歳の頃に父親が徴兵され、母親と弟妹の4人で熊本に疎開する。1年もすると父親の戦死時期や場所、死因などが不明のまま遺骨が疎開先に届けられ、終戦に伴い宮古に引き上げる。戦後は4人の母子家庭。芋や野菜などの農業で自給自足の生活を送る。
新里さんは「その頃40代の母は、女ひとりの細腕で子ども3人を汗水流して
育て上げ、61歳で亡くなった。礎の前では父さんと母さんがいつもわれわれ姉弟を見守ってくれたお陰で、みんな仲良く元気で平和に暮らしていると報告した」。さらに「何も心配せずにわたしたちの子や孫も見守って」と笑顔で話した。
北谷町在住で城辺字砂川出身の狩俣節子さん(73)と砂川朝子さん(72)の姉妹は毎年欠かさず「平和の礎」の亡き母親(上地シヅさん)に会いに来る。2人が1、2歳半の頃、母親と兄、親戚の数人で台湾に疎開。ほどなく母親が当時猛威を振るっていたマラリアに感染し犠牲となる。親戚の話では「悪寒で震える体に掛ける布団もなく、屋外に運び太陽で暖を取った」という。
その後、3人の兄妹は親戚の世話で約2年の台湾生活を送り、終戦に伴い父親と祖母が待つ宮古に引き上げる。上地さんは「一番悔やまれ心残りが母親の遺骨を持って帰られなかったこと。今もって埋葬場所が不明。台湾のどこかで安らかに眠っていることを願うばかり」と顔を曇らす。「私たち家族もある面で戦争の被害者。平和な家族が壊された。子や孫に恵まれた今の生活も、われわれ兄妹を献身的に養育した祖母のお陰。母と祖母に感謝の気持ちを込めて手を合わせました」と話した
在沖多良間郷友会(亀川博薫会長)は出身戦没者174人が刻字された礎を前に、三味線と合唱による宮古民謡「なりやまあやぐ」と「多良間しょんかね」の2曲を奉納した。今年で3回目の催しとなる。