【私見公論】方言普及について考える/佐渡山力
戦前・戦後の標準語励行の実態について①
戦後70年、節目の年である。過ぎし20世紀は科学技術の著しい発達により豊かな生活を享受した反面、日清、日露戦争、第1次世界大戦、十五年戦争、太平洋戦争が示すように戦争に明け暮れた文字通り殺戮(さつりく)の世紀であった。中でも国内で唯一の地上戦に巻き込まれたわが県は鉄の暴風にさらされ、多くの尊い人命を失った。犠牲になられた同胞に哀悼の意を表します。
それにしても、この地上戦に関わるおびただしく生々しい証言や米国の実戦のすさまじい映像を目にしたとき、胸の張り裂ける思いがこみあげ、何ともし難い苦痛を覚え、物憂い日々を過ごすこの頃である。
この戦争でわが故里は焦土と化したが、先人等が日常的に使っていた方言までも持って行かれたと嘆く御仁もおられる。
明治12(1871)年の廃藩置県後、日清戦争(明治27年)に勝利を収めた後も近代化の波が押し寄せ、大和風の風俗に改めようとする運動が澎湃(ほうはい)として起こり、明治以来、県が標準語励行教育を推進してきたにもかかわらず、容易に標準語に改まることはなかったようだ。そのため運動は強くなっていく。北小百年によれば文部省思想局は昭和12(1937)年5月「国体の本義」を編さんし、全国の学校や社会教育団体に配布し、県はそれを依拠し教育綱領と努力目標を発表している。国語教育力の徹底、国民体位向上等のほか9項目の努力事項の中に標準語励行の徹底を期し、その家庭化、社会化に努力することとある。昭和15年頃には励行運動は禁止や懲罰(方言札)により厳しくすすめられたので、「方言撲滅運動」と受け止められたようだ。
そんな折、昭和15(1940)年1月、沖縄を訪れた日本民芸協会の柳宗悦氏らが、県の学務課が進めている標準語励行は行き過ぎであると批判したことから、県内外に賛否両論の「方言論争」が巻き起こったとのこと。ちなみに民芸協会側の意見を要約すると、①標準語励行に反対するものではないが、そのために沖縄方言を見下してしまうのは県民に屈辱感を与えることになり、行き過ぎである。②沖縄方言は日本の古語を多く含んでおり、学術的に重要である。③他県にそのような運動は存在しない。この論争は結論を得るに至らず柳氏の主張を是とするも標準語の大切さも強調されたようだ。
しからば当地区ではどのような関わり方がなされてきたか、宮古教育誌(各学校の沿革を書き記した資料集)から抜粋し紹介する。
昭和14年7月11日、A校長へ平良町標準語励行委員の嘱託辞令が到着、同校では昭和15年4月6日、6項目の校訓の中に標準語励行の記述、くしくも小生の小学校入学時のことである。B校では本日より6月末までを標準語励行運動期間とする(昭和18年5月1日)。C校では昭和18年10月15日、標準語励行および礼法の実行優良部落として県より表彰を受け、D校では昭和18年3月24日の修了卒業式で励行賞7名と実行家庭としてSさん一家を表彰、E校の場合、昭和25年4月10日励行期間として位置づけ、7月20日の1学期の終業式では130名の児童を表彰し、同学年度の修了卒業式では、4月以降の取り組みが著しく向上した旨の長文での記述が見られる。F校は、いち早く昭和14年6月3日、村全体の各団体役員を集め周知徹底をなし、15年12月10日には期成会を組織している。なお同校では昭和40年代まで共通語励行を第一番に上げ、励行に努めている。
目下、方言の衰退は看過できない状況にあり、喫緊の課題である。小生は、新聞や同級生の記念誌にも方言普及をライフワークにする旨公言しており、微力ながら活動に励んでいる。
ところで県内の各団体や個人、ボランティア等のさまざまな方法が連日県紙で紹介されており、これらの活動が功を奏し、県教育サイドではテキストを作成し、学校でも指導する段階までにきていることは喜ばしい限りである。
今後は方言指導はわれわれ大人の責任であることを共有し、実効性を重視した方策により推進することが肝要である。
佐渡山 力(さどやま・つとむ)1933年生まれ。宮古島市平良出身。52年宮古高等学校卒業。53年宮古教員訓練学校卒業。同年旧下地町立下地中学校。64年本土派遣研究教員(東京都)。70年宮古地区小・中学校音楽研究会長。75年本土派遣大学留学教員(埼玉大)。81年旧平良市少年少女合唱団長(通算15年)。86年旧平良市立南小学校教頭。88年旧下地町立下地中学校長。2003年、戦後の教育と向き合って音楽教育のことなど小冊子発刊。04年旧平良市立東小学校長。06年同校にて定年退職。同年旧宮古福祉事務所家庭児童相談員。09年旧平良市家庭児童相談員。10年喜寿記念 ミュージカル「貢布織女の歌」劇中音楽ほかCD製作。同年、宮古方言を広める活動に取り組む。