【私見公論】ラジオの力/仲里雅彦
地域、災害情報に威力
日本で最初に登場した放送メディアは1925(大正14)年誕生のラジオ放送で、今年で放送開始90年という古い歴史を持つ。戦時中は国民に対し国家が意思を伝えるためのメディアだった。そして戦後、テレビ放送が始まるまで、映画と並ぶ〝娯楽の王様〟として支持され、テレビ普及の遅れた宮古でも雑音混じりのラジオが唯一の放送メディアであった。
1992年(平成4)年、地域密着の放送を主な目的とし、市町村単位を放送エリアとする「コミュニティFMラジオ」がスタート。全国で300局余が開局し県内では16局が放送している。
15年前に遡るが、「我んたが島のラジオをやりたい!」と目を輝かせて訴える20代半ばの青年たちがいた。名前を聞くと「信長」「光秀」。強い宮古ふつを炸裂させ「パーソナリティーの勉強を始めているサー」との真剣な話に爆笑したものである。
その頃、トライアスロン大会をラジオ放送するイベントFM放送局計画を始めたばかりで、朝6時から夜11時までの17時間生放送は、素人集団では無謀だと感じたが、「島ラジオをやりたい!」の声に後押しされ、県内初のイベントFM放送局がオンエアー。選手や島民が燃える感動の一日を実況生放送した。予想を超える反響は「島ラジオが欲しいよねー」の声に変わり、離島初のFM放送局「エフエムみやこ」が開局。13年が過ぎた今も、あの青年たちの放送が鳴り響いている。
東日本大震災放送で注目されたのはラジオとインターネットであった。その理由は速報性と停電でも使用できる機能性に起因している。ラジオはリスナーからの声を即、電波に乗せることが可能であり、さらにその情報は他リスナーの反応を誘いネットに拡散され複層化される。
震災直後、安否情報や災害情報を流し続け、人々を勇気づけてきた被災地のラジオ局の活躍は、内容の面だけではない。地震や津波による停電でテレビをはじめとする他のメディアが使えなくなったときも、電池で動くラジオは唯一稼働するメディアとして存在自体が被災者を元気づけた。ラジオの向こうに生きている人がいると感じさせることで、被災者に安心感を与えたのだ。
ラジオは古いメディアとの声がある一方、コミュニティFMは全国で増え続けているという不思議な現象がある。主な理由として災害時の防災無線の補完メディア、地域情報の発信としての社会的役割やネットと連携した放送と通信の融合など、新たな付加価値が認められているのが大きいと考える。ラジオは映像が伴わないことが弱みだと捉えられがちだが、映らないという理由から、リラックスして話せる出演者の人柄や素の部分までを楽しむことができる。音声だけだからこそ、人の〝想像力〟を強く刺激するのだ。また、インターネットラジオの登場で、携帯電話やパソコンで全国どこでも聴けるようになってきた。
そこにラジオでもテレビでもない第三の制度、「V-Lowデジタル放送」という新しい放送が始まろうとしている。アナログテレビの空き電波を使用し、高音質音声や映像・各種データをデジタル化し放送する仕組みで、ラジオ事業の今後として、行政と連携した防災減災放送による「安心メディア」、「見えるラジオ」による教育・福祉への波及、ネット配信による地域を越える「エリアフリー化」など新たなメディアとして期待されている。
一方、イギリスでは、精神疾患者や手術前患者に「元気の出る曲」や「癒やしの曲」を届けることで、治療や社会復帰の手助けする「病院ラジオ」がある。治療の一環としてラジオを利用し、患者からのリクエスト曲や治療の体験談などを放送し効果を上げており、医療と放送をマッチングさせる取り組みが注目を浴びている。超高齢社会で一人暮らしや寝たきりが増えている宮古でも、ラジオを通じて在宅要介護者や引きこもりおよび障害を持つ人に寄り添い、社会参加の促進や治療に貢献するラジオを目指して力を発揮したいものである。
仲里 雅彦(なかざと・まさひこ)1958年生まれ。宮古島市上野出身。81年日本工学院専門学校卒業後、旧上野村教育委員会採用。旧上野村役場在職時はIT・地域活性・観光リゾートを担当。2000年トライアスロンイベントFM放送局、02年エフエムみやこ開局を担任。起業のため04年退職し(株)FAIを設立。同年(株)エフエムみやこ代表取締役就任。