【人生雑感】人の死は、例外もなく、他人に変わることもできない悲しいことである
沖縄国際大学名誉教授 福里盛雄
1 死は、すべての生きている者に例外なく迫ってくる。
私たちは、生まれてくるやいなや、死に向かって生きている、というより、毎日、死を背負って生きていると言った方が正しいかもしれません。
サマセット・モームという有名な作家は「世の中にはさまざまな統計があって、そこには数字のまやかしがある。しかし、絶対に間違いのない統計がただ一つだけこの世の中に存在する。それは、人間の死亡率が100%だということだ」と言っています。
死は大方予告なく突然的に訪れる。ある歌人は「遂にゆく道とはかねてききしかど、昨日今日とは思わざりけり」と詠んでいます。また、徒然草の第137段には、「若きによらず剛来にもよらず思いがけぬは死期なり」と記しています。死は他人の問題とばかり考えていたのに、自分の方に死がそんなに早く迫ってくるとは、予期しなかったでしょう。それが、一般的考え方ではないでしょうか。
死に対しては、他人が変わることもできない。人は自分の死を死ぬだけである。人は、死ぬと、この地上から消えてゆき、すべてのものを失うことになる。そのことに思いを抱くとき、自分だけは死を免れたいと願うのは人間の自然の欲求です。秦の始皇帝は、不死の薬を探しに、弟子を各地方に送り出しました。始皇帝は、弟子が不死の薬を探し回っている中、死亡したという逸話が残されています。このように死に対しては、できる限り免れたいというのが、人の本能ではないでしょうか。
2 人間は死んだらどうなるのでしょうか。
人が死ぬとその生活機能を失います。そして、生活活動を停止します。肉体的には腐敗が始まります。しかし、人間には魂、霊が宿っています。そのために、人は死んだら、どうなるかという問題が生じてきます。
人の死後については、宗教的に、文学的に、哲学的に多数の見解がなされています。その主なる見解について、その考え方を説明しますと、
①人は死んだら無になるという考え方。人は死んだらすべてを失い無になるという。
②輪廻の考え方。人は、死んでまた別のものに生まれ変わってくる、と考える。
③人は死んだら誰でも、仏や神になるという考え方。この考え方は人生の善行悪行の意欲を失わせる。この考えによれば人は生涯を安易に自分の欲求に従って生きていく。
④人は、二度死ぬという考え方。これは、聖書の見解です。
第一の死は、魂と肉体の分離、人が死ぬと肉体は、土に返ります。それは神が、人を土で創造したからである。魂は、それを授けた神の元に返る、これが第一の死です。神の元に返った魂は、神の裁きを受けるのです。聖書は、「そして、人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっているように」と言っています。
神は、その人の地上でキリストを救い主として、厚い信仰生活をしてきた者は、パラダイスに送られ、そこでキリストの再臨を期待し、キリストの再臨とともに甦ります。
私たちは私たちの戸籍は、天国にあり、この地上の生活は、短い間の仮住まいであるという信仰を持つことができる人は何と幸せでしょう。そのような人にとっては、死ぬことは不安ではありません。また、恐怖や悲しみでもありません。神様の側では、悲しい涙も神が優しく拭いてくださいます。この地上でのさまざまな思い煩いから解放され、楽しい平安な生活を楽しむことができます。それは、キリストが唯一の救い主という地上生活における強い信仰の賜物だと神の言葉である聖書は宣言しています。