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社会・全般
砂川 昌順さん(49歳) 技術翻訳の「デプロ」社長(旧城辺町出身)
「気持ちはいつも宮古人」
「気持ちはいつも宮古人ですよ」と笑う砂川さんは現在、二つの会社の代表取締役として多忙な日々を送ってる。「宮古に貢献したい」と、昨年の夏に東京で行われた久松中学校の演劇を衛星を使わない低コストの中継技術という自社システムを使用して無償で生中継した。「企業としての社会貢献という意味も持ちながら沖縄を広めていきたい」と熱く語る。
宮古出身で八重山育ち。八重山に移り住んだ両親が「宮古出身にこだわりたい」と、わざわざ宮古で子ども全員を出産したほどだ。「宮古出身という同様の誇りを子どもにも与えたかったんでしょう」と笑う。「子どものころから周囲の人はみんな宮古出身。兄や姉にも『いつ宮古に戻るの?』としょっちゅう言われていました」というほど宮古は身近なものだった。
八重山高校を卒業後、東京放送の奨学金を得てサンフランシスコ大学でジャーナリズムを学んだ。卒業後は就職よりも「日本を勉強しなくては」と思い立ち、新聞奨学生となって生活費を新聞配達で捻出しながら通訳養成所に通った。 ある日、学校の掲示板で在外公館職員の試験の案内を目にした。軽い気持ちでチャレンジしたが、見事に難関を突破。外務省が求めていた即戦力を兼ね備えていた人材だった。研修も無く内示を受けた行き先は政情が不安定なアフリカの在ガーナ大使館。
しかし、不安より好奇心の方が勝った。照りつける太陽に「沖縄かと思った」というのが第一印象。公安業務など取り調べも行うハードな部署だった。
2年後は中東のバーレーンへ赴任。そこで大韓航空機爆破事件の金賢姫(キムヒョンヒ)元死刑囚らを実際に追跡し身柄を確保した。その時の様子を「極秘指令」という本に克明に記した。ドラマ化もされ反響を呼んだ。
人権に関しての活動も行い横田夫妻と全国講演に奔走した。「人権というと難しい言葉ですが、助けたいという気持ち。解決策を一緒に考えるという優しさなんです」。今も水面下で行われる交渉事にも積極的に協力している。
外務省を退職し、財団法人から民間の大手翻訳会社に就職。そこで出会った優秀な人材を集めグループでの仕事を始めた。外資系のソフトウエア会社に営業を展開、通常半年かかると言われている業務を2週間で仕上げた能力を買われ仕事は順調に進んだ。起業という形ではなく、取引先の分社化にともない株式会社デプロを起業した。その5人の仲間とは今も一緒に仕事をしている。
「人との出会いがなければ発展はない。特に会社は僕の責任において人生を預かっているという気持ち」。それは両親から学んだ哲学だ。八重山に両親が駆け落ち同然で移り住んだとき、親身に助けてくれた祖母を両親は亡くなるまで大事にした。「恩を忘れない。助け合わなければ人は生きていけない」と叩き込まれた。そして今も現役で働く父の姿は仕事への勤勉さを教えてくれた。
2005年にはNetLive(ネットライブ)を立ち上げ、沖縄の活性化につながる活動も積極的に行っている。「大切なのは励まし合うこと。自分だけが幸せになっても意味がない。それは宮古の発想だと思う」
砂川昌順(すなかわ・しょうじゅん)
1960(昭和�年)5月�日に通昌(みちまさ)さんと好江さんの二男一女の次男として旧城辺町に生まれる。
八重山高校を卒業後、サンフランシスコ大学でジャーナリズムを学ぶ。
卒業後、外務省在外公館専門職員としてガーナ、バーレーンで勤務。退職後、大手翻訳会社を経て馼年に「デプロ」を立ち上げ。�年には「NetLive」を起業。現在二つの会社の代表取締役。