元米空軍レーダー技師が50年ぶり来島/宮古島で知人探しの旅
沖縄が日本に復帰する前の1964年1月から65年1月まで、上野野原の米軍第623航空警戒管制中隊第1分遣隊(当時。現在の航空自衛隊宮古島分屯基地)で、レーダー技師として勤務していたバゼル・G・レイニーさん(73)=米国ミシガン州在住=が、約50年ぶりに宮古島を訪れている。
レイニーさんは「同分遣隊に勤務していたとき、宮古島の人たちはとても友好的でオープンだった。何人もの知人、友人ができたが、自分も若くて経済的な余裕もなかったため、音信が途絶え、名前も今は覚えていない人が多い」と話し「当時の思い出は人生の大切な一部なので、できれば再会できる人がいればうれしい」。
レイニーさんは23日の午前中には宮古島を離れる。「当時の交流などに心当たりのある人は、連絡をしてほしい」と話している。連絡先は民泊している東野加代子さん(電話090・1556・1920)。
基地に勤務していた当時は「レイニーさん」と呼ばれることが多かったという。「基地内食堂では5人ぐらい、女性が働いていた。そのうちの1人の名前は『ミチコ』だったと記憶している。また基地警備も5人ぐらいいたと思う。よく話しもした」と当時を語る。
レイニーさんは東野さんと一緒に、当時の写真や記憶を頼りに、よく通っていた市内の店などを巡っているが、当時の面影はほとんどないという。
レイニーさんは64年に滞在した時の話として「キンジョウ」という警察官がいて、酔っ払いを見事に取り押さえたことがあった。警察の仕事をしていた「ジュンコ」という女性がいたと記憶している。「その家に上司とともに食事に呼ばれた。家の人は英語をほとんど話せなかったが、非常に親切だったこと。灯油や炭を使って料理していたことを覚えている」と、語った。