新企画・私見公論③地方分権化における地方自治体職員の役割
農作業を終えたところに、宮古支庁時代の砂川泰政先輩から一献交えたいとの電話がある。約10年ぶりである。県職員時代の話に花が咲き、酔いも回り心地よい気持ちで飲んでいると「退職して県職員のしがらみのなくなった今の気持ち、思いを書いてくれ」と、当原稿の依頼である。
翌朝、酔いも覚め昨晩のことを思い起こして題材を考えてみると何も出てこない。とはいっても引き受けた以上は何かを書かないといけないと思い、机に向かって考えると、サトウキビのメイチュウ防除、ドラゴンの除草と施肥、パパイアの植付け等農作業のことが頭に浮かんで気が焦り、原稿を投げ出して畑に出て行く。そのようなことを模索しながら、たどり着いた結論は、昭和23年に発足した農業改良普及事業に従事した職員で5地区の普及センターで勤務し、かつ農業改良主務課で17年間普及行政を担当してきたものとして普及現場、普及行政を通して見たこと、感じたことをとりまとめた端緒的な問題提起をし、今後の宮古農業(多良間村農業を含む)の発展・活性化の一助としたい。
昭和47年本土復帰を境に怒濤のごとく各種補助事業が入ってきたが、実施要項や要領が北海道から沖縄まで画一的な仕組みになっていて、農家の意向が反映されず行政や関係機関の意向で事業が実施され、中には遊休化する機械や施設等も少なくなかった。
農林水産省は、昭和48年に「農業生産団地基本要綱」を制定し、これまで政策策定は全て国の責務であった制度を改め市町村、農業団体等の自由な発想に基づく振興策を作成させ、国はそれを支援するといった「地域農政特別対策事業」をスタートさせた。当時としては画期的な事業として位置づけられ、地方自治体の能力を発揮できる事業として期待されたものである。そのような時期に営農指導課勤務を命じられた。10年間の普及現場の活動を整理して次のような目標を設定した。
1、本県農業の不利性の克服
本土復帰以降の本県農業は、日本農業のなかでは限界地的農業であり、多くの離島を抱えた島しょ性こそ本県農業の不利性である。自然的、地理的不利性を克服するためには情報処理機材が必要である、との結論に達して財政課に予算調整したが、即座に「当初予算要求にもない事業を補正や流用で対応することはできない」と一蹴されたため、沖縄総合事務局に無理を承知で相談に行った。結果、共同農業改良普及事業交付金の交付決定通知書に「情報処理機材の整備を含む」との一言が明記された。それを持って再度財政課との調整である。財政課の担当者は「宮古の人は熱しやすく、あきらめも早いときくが意外としぶといね」と苦笑いしながら情報処理機材の整備を認めてくれた。
2、高度現地診断指導車の整備
普及センターでは県外用野菜や花きの進展に伴い、県外からの視察者が急増しその対応におわれる状況であった。人数によっては車3台で案内するため、本来の業務に支障を来す状況まで起こっていた。その課題解決のため、巡回指導車にワンボックスカーを補助対象として加えるよう局へ相談したところ、新規事業として高度現地診断指導車(分析診断機材、情報処理機材等を搭載した車両)が配備された。
県職員として取り組んだ事業の一端を長々と書いてしまったが、農政がめまぐるしく変化している状況下で地方自治体職員に求められているのが政策提言・政策策定能力である。そのことを自治体の行政職員は自覚しているだろうか。35年ぶりに宮古に勤務しての第一印象である。「政策提言・策定能力」と書くといかにも難しく感じられるが、日本農業の中で沖縄農業は自然的・歴史的にも特異であり、沖縄農業の振興策はその特異性を十分熟知した上で展開すべきである、と提言してきた。
宮古農業だけでも課題は山積している。製糖企業、JA、農業共済は必死だ。最も頑張っているのが農家自身である。宮古農業の強みは新規就農者が急増していることである。昭和38年の粗糖輸入の自由化によりサトウキビ価格は暴落して、基幹的な農業労働力を他産業へと流出させた。あれから約35年ぶりに若い青年農業者が戻ってきたのである。今こそ農家の意向を十分に把握し、農業関係機関・団体および製糖企業が英知を絞り出して、経営に有益な情報や施策を提言・策定し、効果的かつ効率的な展開により宮古農業の発展を図るべきである。そのコントロールタワーを担うのが宮古島市、多良間村の責務である。
砂川光弘(すなかわ・みつひろ) 1948年生まれ。宮古島市(平良)出身。宮古農林高校卒。農林省園芸試験場久留米支場養成研修科卒。70年琉球政府宮古農業改良普及所入り。73年営農指導課・南部・北部・中部・八重山農業改良普及所。2000年(財)沖縄糖業振興協会事務局長、02年宮古農業改良普及センター所長、03年営農推進課長、06年宮古支庁農林水産調整監、09年に定年退職して就農。