苦言、提言、ホラ吹き(1)/棚原 恵照
大野越移住地から高野部落へ
私見公論⑦
高野集落入植50周年祝賀会が、去る10月23日催された。ああそうか、あれから50年が過ぎたのかと感慨深いものがある。1959年、平良市役所に就職して翌年のことであった。行政のなんたるかも知らずに、工事中の現場を見て「これは駄目だ」と、けちをつけてしまった。
1956年、宮古島にフェイ台風が来襲した。ときの市長は第4代石原雅太郎である。大神島の人々が台風災害で食べ物が全く無いという食糧危機を市長に訴えてきた。石原市長は大神島民の窮状を救うため抜本的対策にのりだした。それが、大野越移住促進委員会の発足である。委員会はアメリカ民政府、琉球政府、平良市で構成された。土地は平良市有地、工事施工は琉球政府、補助金はアメリカ民政府である。開拓地90町歩、入植戸数40戸、耕作地50町歩、補助金9万4846ドルである。当初の計画では大神島島民と多良間村水納島島民10戸が移住の対象であったが、1960年、水納島住民の移住対象者を全島民にしてほしいという要請運動が起き、全島民移住対象となり、最終的には本島内から5戸も含めることになる。
1959年9月、またもや台風サラ(宮古島台風)の来襲により、移住対策は加速され1960年2月、最終的実施計画の仕上げがなされた。そして同年3月、工事着工の運びとなる。ところが、平良市は昔から政争の激しいところで、1957年の市長選挙で当選した嵩原恵典市長(第5代)が1年後に死去したことで、また政界の騒ぎが大きくなる。しかし、同年9月に第6代市長に富永寛が選出されるが、1960年が明けても市政の混乱は、保守合同問題も含めてとどまることを知らなかった。しかし、このような状況下で台風対策や大野越移住関係工事等は支障なく進められていた。
その頃ある日、富永市長と大野越住宅建築現場を見ることがあった。初めに言ったように、「これは駄目だ!」と言ったのである。ノーユウ クヌプリムヌ ヤラビンナスサイン ウワァ スナーシウリ。市長から一喝された。琉球政府職員がやっていることに口出しはするなということである。当時は政府職員は市町村に対して高飛車だったらしいが、私はそれを全く知らなかった。今でも県と市町村との間には似たようなことなきにしもあらずらしい。
しかし私は、戦前大野山林内で大雨のとき、父の兄弟を亡くしたことを父から聞かされ、戦後私は、小学3、4年から毎日のように父と2人でその周辺を開墾し、戦後の食糧難に対応するために苦労した。大野越は非常に起伏の激しいところもあり、大雨の日は、カニワー馬車は大変でした。大きく流れる水、溜まる水、子供心に青ざめた。大野山林一帯の雨水は東方から西方へと流れ、昔のシドゥガーを経て、海に流される仕組みになっていた。従って大野越移住地の現場を見たとき、冒頭のため息がとっさに口から出たのかもしれない。
大野山林は戦後、東側に大仲農場が造られ、大々的にイモ作をしたところである。その西側の一角が移住住宅の建築現場である。普通ならば、高地に家を造り、低地は農業用地とするはずであるが、それが高地を畑として低地に住宅である。そして、山林との接点である西側に水の流れを遮断するように道路ができる。当然に住宅地は水たまりになるはずである。
移住後の住民は、雨期や台風時には、数えることのできないほど、浸水で悲鳴をあげたのである。部落民の窮状を救うため、後に多額の予算を計上し排水工事をして今日に至っている。移住計画そのものは時宜を得た素晴らしい計画であったが、住宅場所の選定は誤りであったと言わなければならない。
ところで、50年を経た今日まで、部落住民の健康や豊年、豊作、豊漁等を祈願してきた唯一の「ウタキ」がある。そこが、近年何者かたちの土地取り引き等によって、「ウタキ」の存続があやしくなってきたと聞いている。大変なことが起きなければよいが? 地域住民はもちろんであるが、関わる人間にも、そして行政当局にとっても重大なことだと思う。
「ウトゥルス クトゥン ナランヨーンシ」、行政と地域が早急に対応することを望む。