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私見公論
2012年10月13日(土)22:44

ふるさと(6)/渡久山 春英

私見公論51

 「食べ物をください」。その人は軍服を着ていた。海の特攻隊であった。兵隊というよりイケメンのニイニイの感じであった。「腹が減っては戦ができぬ」。直立不動で「いも」をもらったニイニイは帰る途中、石垣に腰をおろして、郷愁に更ける歌を歌っていた。「ふるさとは遠きにありて思うもの」。ここは孤島多良間島の話である。挺進艇は海岸の緑地帯に隠してあった。明日の命を覚悟した兵士の歌は「故郷」であったことをかすかに覚えている。「…いかにいます 父母…」。68年前のことである。


 終戦のときがきた。島中は活気を取り戻した。暗い長いトンネルから抜け出したのだ。国民学校は「小学校」に改称。新制中学校もスタートした。後援会(PTA)も結成され、島の希望の子供たちの育成に邁進した。運動会・学芸会は島に唯一の娯楽を提供した。子供たちは地域活性化の主役をなした。そのことは走馬灯のように脳裏をかけめぐっている。

 戦後の宮古は食糧難にあえいだ。沖縄本島や八重山へ移住者が続出した。「故郷を離るる歌」はその頃覚えた。涙が膝をひたす。宮古方言の「ツグスから涙」に酷似している。とめどなく流れ出る涙の意があるそうだ。「えんどうの花」は多良間小学校600名の愛唱歌であった。

 戦後、多良間から平良までは焼き玉エンジンのポンポン船で、6時間の渡海であった。航海の途中、椰子の実が波間に漂っているのが見えた。「名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ 故郷の岸を 離れて 汝はそも 波に幾月」。椰子の実の行き着く所はどこだろうか。若葉が生えている実も見えた。生命力を実感したものだ。

 秋は郷愁・懐古に浸りセンチになる季節だそうだ。「旅愁」がそれである。「こいしや故郷 懐かし父母 夢路にたどるは 故郷の家路」。本土から宮古に移住された皆さんの心境はいかばかりだろうか。秋の夜長にカラオケで思い出の歌を満喫しよう。

 ふるさとの味といえば、やっぱり宮古味噌のンスー(味噌汁)だ。刺身には宮古味噌のタレがいい。茄子の炭火焼きも味噌ダレがいい。味噌がめに保存した焼き魚の味は世界に類をみないだろう。最近のテレビは、とろける味、のどごしさわやか、コクがある、コシがあるなどと言っているが、全く意味がわからない。ところで先日のこと、Tさんから「はちみつ」をいただいた。濃密で栄養満点。この味覚はどう表現するだろうか。

 A君の家は掘っ立て小屋のカヤぶきであった。壁はススキであった。隙間から外が見えていた。A君は学校の家庭訪問の日時を両親に伝えた。両親は「来るべきものが来た」と胸騒ぎした。母は先生に差し出す食べ物について悩んだ。ソウメンブットゥルか、ナビパンビンか、なけなしの金の卵焼きか。戦後高価な食品は卵であった。家庭訪問の日が来た。母はチョウキ(茶請け)に卵焼きを出した。A君は心の中で安心した。すると母はもう一つ味噌がめに保存してあった焼き魚も出した。父は「息子が釣った魚だ」と自慢した。先生は卵焼きを食べなかった。焼き魚を3匹も食べた。しかも手に持って食べた。A君はおどろいた。その夜A君は興奮して眠れなかった。「先生はぼくが釣った魚を食べた、先生ありがとう」。A君は充実した学校生活をおくり、学校へ行くのが何より楽しかった。

 さて、「カナンの地」とは楽土・理想郷の意味があるそうだ。「宮古」…なんと美しい名前だろう。古の宮殿を連想する。風雅・風流の古都を思わせる。ならば、宮古の島々はいつまでもカナンの地でありたい。「食べ物をください」の暗い社会はあってはならない。

 宮古から「都大路へ行かす会」がこのほど結成された。宮古高校の駅伝部が県制覇の夢があるというのである。会長には往年の王者・上地伸栄氏が就いた。自ら都大路をかけぬけた英雄だ。事務局長には本村邦彦氏が就いた。他の役員の顔ぶれも頼もしい。西城学区出身の砂川泰久爺に続けと応援しよう。

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