「ただ歌が好きだったあの頃」/下地 暁
私見公論62
電気も水道もなく貧しかったあの頃の私の唯一の楽しみはトランジスタラジオでした。ただ歌が好きだったあの頃、私はその小さな箱から好きな歌が流れてくるたびに、耳をそばだて熱心に歌を聴いては歌詞をノートに書き留めて覚え楽しんでいました。小学1年の頃に夢描いた歌の好きな少年がまさか歌を歌うことを生業にするなど、つゆほども思っていませんでした。
中学生になった私は、日々、陸上やバレーボールなどの部活に明け暮れる少年でしたが、音楽が好きなのも相変わらずで、部活の帰り道パナギー(ハイビスカス)の生け垣に囲まれたスッスゥガーラヤー(白瓦家)から、大きな音で流れてくる激しい律動の外国の曲を、道端に立ったままうらやましく聴き惚れたりしていました。ある日の部活帰り、いつものようにパナギーの生け垣の前で立ち聴きをしていると、「さとる クマンカイク~(暁、こっちにこないか?)」と、ひとつ先輩のニーニーに声をかけられました。
部屋へと招かれた私は、ラジオの何倍もある大きさのステレオから流れるレコードの音にワクワクしたり、初めてギターを触らせてもらい、ベンチャーズの手ほどきを受けたりと、音楽というものへの興味を激しくかきたてる体験をするのでした。
やがて興味は行動へと変化します。教室の端に机を寄せ集めて即席のステージを組み、友人とふたりで借り物のギターを抱え、クラスメイトの前でベンチャーズの「パイプライン」を演奏するのでした。それはうまいとか下手とかそういうレベルですらない、中学3年生の私の初舞台でした。
宮古高校の定時制へ入学した私は、昼はバイト、夜は学校の授業にクラブ活動。そして寸暇を惜しんでバンドの練習に明け暮れます。家族11人という大家族の貧しかった暮らしの中では、自分がしたいことやりたいこと欲しいものを手に入れるには、自分で働いて学費を稼ぎ学校へ通うしか手立てがありませんでした。バイトで稼いだお金の半分は家計の足しに、残りは学費やレコードや楽器、バイクの免許を取り憧れのナナハンを購入…(はたから見るとぜいたくなボンボンに見えていたようです)。ある日、工業高校でバンドをやっている顔見知りから、「ウチのバンドでボーカルをやらないか」と誘われました。
沖縄ロックが全盛期のあの頃、私は定時高校の仲間とバンドを組み、ベースを弾きながらボーカルをやっていたのですが、なぜかベースではなくボーカリストとして、工業高校のバンドに加入するのでした。それが「魔滅美(まほろび)」という、高校生のロックバンドだったのです。まさに青春真っ只中、旧上野バス停留所横の友達の家でバイトの帰り学校に行くまでの時間を利用し、ただがむしゃらに練習したものです。
この頃島にはライブハウスやロクな音響機材もなく、あちこちで公民館を借りてはライブをすると、その噂を聞きつけ音を聴きつけ、学生たちがたくさん集まって来たりしました。そんなある日、那覇から憧れの先輩が帰郷すると知り、旧平良市民会館を借り切って合同ライブを計画。チケット制作から販売、全てが仲間との手作りのイベントでしたが、初めて数百名もの観客に圧倒され、まともに前を見て歌うことができず、ほとんど横を向いて歌ったという恥ずかしくも懐かしい思い出があります。
当時はコピーバンドで、「グランド・ファンク・レイルロード」「CCR」「ブラック・サバス」などのハードロック系がメインでしたが、家に帰って一人で聴くのは「カーペーンターズ」や「サイモン&ガーファンクル」「井上陽水」といったメロディアスなものばかりだったのは、今の創作活動につながっているのかもしれません。
4年をかけて定時制高校を卒業すると、誰しもが夢見る都会へと心は動かされます。しかし、両親や兄弟との話し合いの中で夢よりも現実が勝り、技術を身につけようと自動車会社へ集団就職という形で上京するのでした。