がむしゃらだった東京時代/下地 暁
私見公論67
集団就職で島を離れ東京へやって来た私は、昼夜二交代の自動車工場のラインに立っていました。手に職をつけようと自ら選択した結果でしたが、どこかが違っているような気もしていました。
そんな折、ひと足先に東京で就職していた友。島で組んでいたバンドのベーシストと会うようになり、懐かしい昔話に興じているうち、封印していた大好きな音楽をやるようになりました。とはいえベースとボーカルだけではお遊びのバンドにも足りない。
そこで貸しスタジオの掲示板にメンバー募集の貼り紙を出し、新たにギターとドラムを迎え入れ、仕事をするために上京した街で再びバンド活動をスタートさせたのでした。
実はこの頃、工場のラインの仕事をしていても、本当に手にしたいと思う技術は得られないことを悟っていました。将来を思い描いて島を旅立ったものの、そこには小さくも深いズレがありました。今思えば挫折とまでは言わないが、青すぎた思いだったのかもしれません。
2年ほど勤めた工場を辞して寮を出た私は、中野の安アパートに居を移し、食べていくために片っ端からバイトを始めました。本当のところをいえばバンドがやりたいがためでもありました。
バンドを続けるにはお金がかかる。練習する貸しスタジオ代もバカにならないからと、なけなしのお金を出し合い自分たちで造ることにしました。それぞれがバイトの空いた時間を利用し、廃材や古い布団(当時、私は布団屋でバイトをしていた)をもらってきて、高田馬場の雑居ビルの一室に手造りのスタジオを完成させたのでした。もちろん、自分たちの練習時間外はレンタルし、そこから音楽仲間が増えていきました。
練習する場が整ってくると次は披露する場所も欲しくなり、今度は神楽坂にライブハウスを造りました。場所を持ったことでイメージも膨らみ、対バン形式のイベントを開催したり音楽雑誌と組んでコンテストを企画開催するなど、音楽に関わることを仲間と共にがむしゃらに取り組んでいました。
また、歌い手として仕事をする機会も少しずつ増え、三好鉄生や倉橋ルイ子等のバックコーラスとして携わったりする中、オーディションを経て演歌系の歌手としてデビューする話も舞い込んできました。しかし、自分の追い求める路線との違いから、悩んだ末にそのお話はお断りをすることに…。
プロとアマチュアの境界線のような暮らしは決して楽ではなく、たまに島から送られてくるアウヴァンツ(油味噌)やポーク缶はごちそうであり、同封されているお袋の手紙に故郷を偲び、胸を詰まらせながら食べたものでした。凄腕のスタジオミュージシャンたちが集うバンド「Do-Do」にオーデションを経て参加し、当時はまだ斬新だった打ち込みを取り入れたポップロックはライブでも話題となり、レコード会社からもスカウトに来るほどだったのですが、さまざまな理由から流れてしまいました。
いわゆる業界との関わりも深くなるに従い歌うだけでなく裏方の仕事もこなすようになり、テレサテンなどの楽曲のベーシックアレンジ(作曲家の作った単音のメロディーに、アレンジを加えハミングの仮歌を入れる作業で完成曲の骨組みとなる重要な部分)を任されたりしていましたが、今思うと1週間で11曲も仕上げるという、とんでもないハードワークを強いられていたこともあり、音作りに関してはこの経験でかなり鍛えられました。
とはいえ音楽で生活ができるほど甘くはありませんでした。
やがて縁あって大きなチャンスが訪れます。NSPのリーダー天野滋さん(2005年没)に見出された私は、天野さんとのユニットとしてデビューに向け、三軒茶屋に事務所を構え楽曲の製作などを進めました。ところがそんな中、私に大きな転機が訪れたのです。
宮古島のお袋が倒れ危篤との一報…。取るものもとりあえず島へと戻った私は、この時お袋への思いとともに私のアイデンティティーは、島にあったことを知らされるのでした。