宮古島発信/下地 暁
私見公論72
お袋が倒れたと聞き、取るものも取りあえず東京から宮古島へと戻った私は、空港から真っ先に病院へと向かった。ベッドに横たわるお袋を見ていると幼い頃の思い出があふれ出し胸が熱くなりました。危篤のお袋のもとには親父や兄弟はもちろん、親戚も見舞いに訪れるなどして、お袋のことや島の話を聞く時間が増えていきました。そして、そのとき島育ちの甥っ子や姪っ子たちの中に方言を聞くことはできても、話すことができないという現状があることを知ったのです。
もしかすると、絶えようとしているお袋の命と同じように、生まれ育った島の言葉も失われていくのではないだろうかと、そんな焦燥感と危機感にさいなまれました。それはまさに私のアイデンティティーがこの島にあるんだと気づかされた瞬間でした。
そして、ちょうどその頃の私はプロデビューに向けての準備が直前まで進んでいましたが、東京での活動と生活にピリオドを打ち、当時音楽活動をやるには皆無状態だった島へ活動の拠点を移すことを決めたのです。島の言葉を使って好きな音楽をやる。失われつつある島の方言を、音楽を通し次の世代につなぐという思いは、はからずもお袋の命によって気づかされたものでした。まだインターネットという言葉もなかったあの頃、これからは島から発信する個性、土着の文化のようなものがローカルパワーとしてきっと注目されるはずだと、確信ではなく感覚として感じ活動を始動させたのでした。
宮古島での音楽活動をスタートさせ、やがて完成した「オトーリソング」は軽快なリズムもあいまって、おかげさまで好評を得ることができました。オトーリを廻し飲もうという歌と思われがちですが、この曲はお袋が元気で古希の祝いを迎えられたら、内地や本島の子や孫、親戚もこの島に集まりオトーリを廻して、盛大にお祝いができたのに…という、聴かずして逝ってしまったお袋への思いがいっぱい詰まった私なりの鎮魂歌なのです。
島に戻って2年目、躍動感にあふれたエイサーが宮古島にも流入し、学校などでも子供たちが踊る姿を見かけるようになり、感動と同時に宮古にも伝統芸能のクイチャーがあるのにという違和感を覚え、島の民謡を新たにアレンジし踊れる楽曲を作って提供を始めました。これはのちにクイチャーの新しい形「創作クイチャー」として芽吹くこととなりますが、それはまた次回のお話。
島では音楽で生活をしていくことは難しく、島に戻った最初の頃はインギャーの石積み工事や、かんがい用水の工事のアルバイトなどをしたりしていましたが、曲がりなりにも音楽は夢を売る仕事なので、こっそりと隠れるように仕事をしていたものです。
けれど、このままではよくない。島発信のこだわりは捨てたくないと、ドイツ村から離島発信では初めてとなるラジオ番組「ウキウキ3時のチョーキ」をスタート。
番組は2年半ほど続きましたが契約満了となり番組は終了します。すると島や本島に住む島出身の多くのリスナーさんから、残念だ!ぜひまたやってほしい!との声に背中を押され、改めてラジオ局に交渉を試み半年後、野津さんご理解のもと、当時ブックボックス脇の小さなスタジオから宮古島発信の番組「下地暁のわいわいワイドー!」をスタートさせることができました。
番組も軌道に乗っていましたが諸般の事情から新たなスタジオが必要となり、あれこれ悩み探し回ったところ、宮古グリーンセンターの垣花さんから現在の敷地をご提供いただき、番組放送のためのサテライトスタジオとレコーディングスタジオを備えた建物を、どうにか構えることができました。番組制作だけでなく、スポンサー獲得も全て自己責任なのでなかなか大変ではありますが、たくさんの方々の支えやご協力ご支援のもとラジオ番組もおかげさまで19年目を迎えます。
現在は娘と一緒に親子での放送をしていますが、少しでも穏やかな宮古の空気感をお届けできるよう、これからも取り組んで行きたいと思います。