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美ぎ島net
2013年7月14日(日)9:00

90年前ネフスキーの見た宮古/ネフスキー研究者の4泊5日の旅

加藤九祚氏・田中水絵氏 宮古路を歩く


ネフスキーの碑の前で加藤先生と田中さん

ネフスキーの碑の前で加藤先生と田中さん

 今から90年前、1920年代に宮古島に三度も通ったロシアの東洋学者がいた。名をニコライ・A・ネフスキー(1892-1937)という。島の言葉や歌謡、暮らしなどの民俗を調査し当時の言語(方言)を数多く解読してメモに残した。帰国後も宮古研究を続けたが、祖国では社会主義革命が勃発し大混乱に陥っていた。その中で彼は日本のスパイとして銃殺刑に遭う。彼の研究は闇に葬られた形になったが、その後、発見された論文や書簡類によって、1996年ごろから業績に光が当たり始める。今回、宮古島を訪れた加藤九祚氏(人類学者)と田中水絵氏(ロシア研究)の来島は、10年前から宮古島でネフスキーの遺産を発展的に研究する文化人類学博士エフゲニー・S・バクシェエフ氏(後にエフさん)と会うことがねらいだった。

 加藤氏はネフスキーの生涯を紹介した『天の蛇』(1976年)の著者。1975年にこの著書を上梓するために現地見聞での来島だった。38年ぶりの宮古島で感じたことは、「当時のことがほとんど思い出せないほどの変貌振りで、ただ呆然としている。わずかに思い出せるのは、平良の港付近を歩いたこと、でもほとんど人とは会わず、とても寂しい島であるという印象は残っている」と話す。田中氏は、十数年前、『宮古のフォークロア』の出版祝賀会に参加、その後、シンポジウムに招へいされるなど6回ほど来島している。「最初来たときの海の青さが感動的で、おそらくネフスキーもこれまでに見たことのない海や空の美しさに圧倒され三度も通い、この島の言語や文化を伝えたいと思ったに違いない」と話す。

 6月28日夕来島した二氏は、旅装を解くと市内の小料理屋で郷土料理に舌鼓をうった。翌29日は、ネフスキーが泊まったとされる宿のかいわいを散策、ネフスキー通りを通って、記念碑にたどり着くと、感動した様子。加藤氏は碑をさすりながら「よかった、よかった、島の人たちに大事にされているんだね」と涙ぐむ。その足で、「豊見親墓」などの史跡を訪ね、植物園や博物館に足を伸ばした。午後は、狩俣集落や池間島を訪ね、御嶽などの祈りの場を丹念に見て歩いた。案内したのは歴史研究者の奥濱幸子さんや詩人の伊良波盛男さん。加藤氏は暑い中、重いカメラを首からぶら下げ、珍しい物には常にファインダーを向けていた。

講演と映像の集い/「ネフスキーの見た宮古」


会場は多くの市民で埋まった=6月30日、市中央公民館

会場は多くの市民で埋まった=6月30日、市中央公民館

 4泊5日の滞在中に、市民に広くネフスキーのことを知らせようと企画された「講演と映像の集い」。エフさんを中心に奥濱さん、理学博士の松崎治さんらが協力して6月30日、市中央公民館大ホールで開催された。加藤氏が「ネフスキーとその友人たち」をテーマに講演、田中氏が「ネフスキーの日記より」と題し、影響を受けたといわれる上運天(稲村)賢敷との新たな関わりを発表した。短期間の取り組みにも関わらず、当日は約150人の市民が参加して、ネフスキーへの関心の高さをうかがわせた。

 30日午後、講演と映像の集いは、プロローグで映像「沖縄 祈りの島-宮古・池間島」(1974年、北村皆雄制作)が放映され、40年前の島の暮らしがクローズアップされた。

 加藤氏は、ネフスキーに影響を与えた二人の友人ニコライ・コンラドとエフゲニー・ポリワノフを紹介し、「3人は20世紀のロシアにおける世界一流の日本学の開祖だと言える」と述べ高く評価した。中でもポリワノフが1914年に書いた論文「日本語と琉球語の比較音声論」で、宮古島方言が琉球語の中で最も古く、さらに日本古語に最も近いことを指摘しており、ネフスキーが影響を受けた可能性は十分にあると述べた。

 田中氏は「ニコライ・ネフスキーと上運天(稲村)賢敷」をテーマに「初めて宮古島を訪れたネフスキーが方言を話し島民を驚かせた。彼の知識の背景に稲村賢敷の存在があったことを加藤先生が『天の蛇』で明らかにした」と述べ、稲村の授業の一端をサンクトペテルブルグ東洋学研究所所蔵のネフスキーの日記から探った「悪魔の話」やトーガニ、アマグイ(雨乞い)、カヌシャガマ(恋歌)などの歌謡も紹介した。

 集いは、40年前の映像、休憩時間に45年前の「宮古のアーグ」(杉本信夫採集)が流されるなど、島の懐かしいたたずまいやメロディーが会場を満たし、参加者は忘れかけていた郷愁や言葉を思い起こしていた。エフさんは今後、旧平良市時代に刊行された『宮古方言ノート』を活字化して出版するするプロジェクトを進めていることを紹介し、市民の協力を呼び掛けた。

 講演後、ネフスキーの会(伊志嶺敏子会長)主催の懇親会が市内レストランで開かれ、2001年ロシアを訪ねたビデオなどを鑑賞しながらネフスキーに思いを馳せていた。

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