行雲流水
2013年10月29日(火)9:00
「ふるさと」(行雲流水)
「兎追いしかの山/小鮒釣りしかの川/夢は今もめぐりて/忘れがたき故郷」。日本人はこの歌が大好きである。兎を追ったことがなくても、小鮒を釣ったことがなくても、それは子どもの頃の故郷の懐かしさを想起させて心にしみる
▼先日、この欄にサシバの飛来のことを書いたら、三重県にいる友人から「あのころが懐かしい」と電話があった。サシバはサシバであるとともに自然の象徴。それは森の縁や海岸線の白波、そして、かつての校庭の上空にもつながっている
▼「いかにいます父母/つつがなしや友垣」。故郷は現在だけでなく過去の「人のつながり」の懐かしさである。したがって「故郷」を離れて住む人にも、とどまっている人にも「故郷」はふるさとである。今は亡き親も、子どもの頃に過ごした思い出の懐かしさの中に生きている
▼旧暦の9月13日、「十三夜」に、東京に住む友人から『芭蕉布』を聴きながら月を見ているという電話があった。直後に庭に出て同じ月を見た。やわらかに澄んだ光の中に、爽やかな風が吹いていた。懐かしい風だった
▼いつ、どこで手に入れたか忘れてしまった風呂敷(布切れ)が壁に掲げられているが、それに次の文字が書かれている。「宇宙につつまれているんだね、わたしたち」。宇宙の中の奇跡、生きていることの感覚が究極の懐かしさかもしれない
▼ともあれ、市場化が進む社会の中で、あらゆるものが商品化され平準化されて、懐かしきものが危機にひんしている。願わくは、ふるさとの懐かしさよ、永遠なれ。(空)