宮古の事業家・下地米一の生涯①
困難の中で育てた志
「リヤカーを引いてでも家族を守る」とは、下地米一が繰り返し口にした言葉だ。米一の妹の千代子は、「米一兄は、若いときから親思いでした。私たち兄弟の生活もいつも気にかけていて、苦しいときにはよく面倒をみてくれました」と振り返る。米一の父良信は、言葉より行動が先の性格で、米一はそんな父によく似ていたともいう。
1921(大正10)年9月29日、米一は、多良間島出身の下地良信と鹿児島出身のキヨ夫婦の10人兄弟の三男として、竹富町の西表島干立部落で生まれた。このとき父良信は、姉の嫁ぎ先の河野吉次琉球炭鉱社長に誘われて、西表の炭鉱の人事を担当していた。良信の給与は宮古の土地購入のために蓄財し、キヨが炭鉱夫向けの総菜やお菓子をつくって売る収入でやりくりする生活で、一家が米を口にすることは珍しいころの誕生であった。三男には珍しい〝米一〟と命名したのは河野であった。西表で初めての甥の誕生を喜んで、「将来、成功するように」、「この子の誕生を機に一日米一升の富を授かるように」との願いを込めたという。この後、米一の父良信は、宮古神社のそばに得た300坪の土地に赤瓦屋根の家を建て、一家は宮古島に帰郷した。
◆台湾第七二部隊
米一の母キヨは、几帳面で教育熱心な人だった。そんな母の行き届いた躾のもとで米一は育つ。1933(昭和8)年、平良第二尋常高等小学校卒業後、12歳の米一は、宮古製氷会社に就職する。沖縄県立水産学校に進学中の長兄実と次兄茂に代わって家計を支える道を選んだのである。まだ幼さの残る米一が愚痴ひとつこぼさず黙々と働く姿を前にして、父の良信は酒とタバコを絶ったという。それから2年後、宮古が干ばつに襲われ食料が窮乏すると、米一は長兄実がいた台湾へと旅立つ。道路人夫として稼ぎ、実家に仕送りをするためであった。
日米開戦が近づく緊張のなか、米一は台湾の地で働き続けた。召集令状が来たのは、米一が20歳の1941(昭和16)年12月のことであった。台湾第七二部隊に入隊するとき、父の良信は「日本のために死んでこい」と言ったという。後に、「あのときは、悲しかった」と漏らした言葉を、米一の長女、直子が覚えている。しかし、運命に逆らわず成すべきことに黙々と立ち向かう生来の気質で、米一は軍曹にまで昇進した。理不尽だと思えば中隊長にも率直に物を言う姿勢は、分隊員のみならず上官たちにも信頼されたという。
同じ部隊で戦った比嘉清哲が、その著作『南の空は暗かった』のなかで、軍隊時代の米一を回想している。米軍のM四中型戦車の台湾上陸に備えて「対戦車肉薄攻撃隊」が編成され、米一と比嘉も選抜された。隊の使命は、敵戦車の死角に飛び込み爆破することである。訓練には、地雷を体にくくりつけての肉弾戦法も含まれていた。死を意味する作戦の前に、動転する隊員が続出する。「ところが下地軍曹は、それでも平然と顔色一つ変えず、しかも我先にと訓練に励んでいた」と比嘉は伝える。
◆おでんの屋台
1945(昭和20)年の敗戦の翌年、米一は宮古の家族の元へと復員し、消防団に入団した。ここで、同僚の与那覇恵光の妹節子と出会う。長身で目鼻立ちのくっきりした節子を見初めた米一は、節子の家に通って結婚にこぎつけた。のちに二人の間に生まれた直子や恵子ら娘たちを前にして、米一は、「母ちゃんは、おさげ髪でとても綺麗だった。お前たちとは比べものにならない」と真顔で語ったという。
生活がようやく落ちつき、戦災復興事業も軌道に乗りだすと、米一の起業への志もざわつきはじめる。妻の節子にも、「今に金持ちになるから、ソロバンを習っておけよ」と冗談めかして意思を伝えた。30歳の米一が目指したのは、木材需要にわく西表島であった。人一倍体が強かった米一は、山奥から原木を伐採して運び出す肉体労働で資金を貯めながら機会を待つ。そしてついに、資材運搬用の船を所有する日がやってきた。二人の仲間と共同で新造した船の名は「高千穂丸」。高千穂丸は、木材や薪炭を満載して島々の間を休む間もなく行き来した。復興金融基金による住宅建造も急速に伸び、用材の運送需要は増えるばかりであった。だが、そんな好機のさなかに、高千穂丸は横波を受けて沈没してしまう。海運業への夢が、膨大な借金へと暗転した。
しかし米一は落胆しなかった。米一が見つめていたのは、起きた不運ではなく未来の可能性だった。1954(昭和29)年、再起を図るべく那覇の泊港近くで船員相手のおでん屋台をはじめる。妻の節子が、近所に住む姉のハナに味噌や塩を借りに走るような生活で、次の起業資金を貯めたのであった。晩年の米一は、「子どもを屋台の下で寝かせ、夫婦で頑張ったものです。家内には、当時から苦労のかけどうしです」と振り返ったという。こうして貯めたトラック購入資金を手に、米一は宮古島に帰る。琉球政府の発足から4年目のことである。(敬称略)