「気づくことは、良い人間関係をつくるための愛の行動への入り口である」
沖縄国際大学名誉教授 福里盛雄
1 気づくとは
気づくとは、他人の喜び、悲しみを感じ共有することであるということができると考えます。他人の喜びや悲しみを感じそれを共有することによって、他人との関係が深まり、さらに、人間関係の輪が拡大していきます。ここで気づきとは、どのようなことを言うのか、その適切な2、3の例を挙げましょう。
ある夫婦の息子が、難病で年若くして死別しました。長期間、失望と悲しみの中で過ごしていたこの夫婦は、息子の写真を持って列車の旅に出かけました。ちょうど、富士山の見えるところを列車が通過したとき、富士山が眺められるようにと、息子の写真を窓際に立てておきました。そこに車内のサービス係の女性が、夫婦2人にジュースの2カップを差し出し、さらにもう1カップを差し出し、「どうぞ、窓際の方にも差し上げてください」と夫婦に手渡しました。夫婦は、このサービス係の女性の気づきの心に大変感動しました。早速、列車の本社に感動の電話をしたというのです(柏木哲夫・いのちのまなざし14~16頁参照)。
もう一つ、よい気づきの例を挙げましょう。あの発明で有名なエジソンは、小学校の低学年のとき、素質が低いと退学を命じられました。ところが、彼の母親が彼の潜在才能に気づき、母親の愛情で育て、あの有名な発明家にしたのである。気づきが、人の苦しみ、悲しみに共感し、人に感動を与え、人の潜在能力を現実化する力があることに気づかされます。
最後に、気づきについて、聖書の例話を紹介しましょう。ある旅人が強盗に襲われ、持ち物を全部奪い取られたあげく、半殺しにされ、道端に放り投げられた。そこを通った何人かの人々は、痛みつけられて唸っている旅人の助けの叫び声を聞きながら、先を急いで通り過ぎて行った。ところが、後から来た人は、苦しんだ叫び声を聞いてかわいそうな姿に気づき、傷の手当てをして、宿屋まで連れて行き、宿屋の主人に「この人を介抱してください」と依頼し、全額治療費を支払って、もし不足したら私が帰りに全額支払いますから、とお願いして出かけたというのです(新約聖書ルカ:)。
これらの例話は気づきについて述べたものですが、気づきは、愛する行動の始まりであり、もしも気づかなかったら、前述の愛の行動は実践されなかったと想像します。そのように考えるとき、気づきの効果がいかに大きいことか、理解できたような気が致します。
2 ではどのようにして、よく気づく人になることができるでしょうか
まず、人の話を静かによく聞き、他人の状況をよく観察することである。そして、よく気づく人になるためには、よい実践訓練の習慣を身に付けていることが必要であります。
人は、生きていく過程で、喜び、悲しみ、心の痛みを体感していきます。そして、時に応じて、それらの感情を表した行動を致します。私たちは、誰でも高価な尊い存在として、他人から取り扱われなければなりません。従って、人の行動には深い意味があるので、私たちは、お互いの言葉や行動に対しては、心の耳を傾け、よく集中する必要があります。そうすれば、表面には表れない、その人の心の内部の状況が見えてきます。よく気づくことは、その人の宝ものであり、人間関係を幸せにする土台です。お互いに気づきの心がないことが、今日の人間関係が希薄になっている大きな要因ではないかと考えます。
この社会で生活しているお互いが、他人の生活に干渉するという悪い意味ではなく、共感するための気づき、思いやりのある心の優しい人格者に成長したいものである。今日のような人間関係の希薄な時代こそ、気づきの心の必要性が大切だと考えます。