竹の文化継承へ/18世紀にマダケ造成
古称は唐竹、世代繰り返し根づく
琉球近世、首里王府への御用木の一つとして、宮古島で竹を植栽・育成した歴史の中で代表されるのが「唐竹(からちく)」である。唐竹の正式名はマダケ(真竹)。唐(から)には外国の意味があり、唐竹は中国原産との見方もあるが、はっきりしない。
宮古島の白川氏(しらかわうじ)家譜支流に13世平良大首里大屋屋子恵通が在職した時の業績の一つに次の記録がみえる。(『平良市史』第三巻資料編1に収録、187~89頁)。
宮古の唐竹に関する記録では、現段階で最も古い。「平良」は平良間切(まぎり)のことで行政区域の意味。大首里大屋子(おおしゅりおおやこ)は頭(かしら)のことで、位階は親雲上(ぺーちん)。恵通が平良大首里大屋子に在職した期間は1737~1742年までの5年で、その期間に唐竹敷地は整備されただろう。
稲村賢敷は、その著書『宮古島庶民史』(1972年)の中で、「深底は城辺町比嘉の東方に当たる」と記している。そうであるならば、宮古島で初めて唐竹土地が造成されたのは比嘉地域の深底とされる。
首里王府が1874年に示達(じたつ、伝達)し、現存する「富川親方宮古島規模帳(抄)」には「唐竹ノ儀、段々入用有之候間、大地方ハ勿論、離ノ村々迄モ敷場見合相仕立、用分無不足相達候様可取計事」とある。(『沖縄県史』前近代6首里王府仕置に収録、381頁)。
大意は、唐竹はいろいろと必要なので、宮古本島は勿論、離島(伊良部島、池間島、来間島、大神島、多良間島・水納島)の村々までも場所を検討して植え付け、用いる量に不足が生じないように取り計らうべきこと。
対訳の「いろいろと必要なので」の部分では、具体的な一例を示していないために分かりづらい。
同年に示達した「富川親方八重山島規模帳」に参考となる条文がみえ、その条文に「唐竹之儀、諸船帆さん(後略)」とあり、一例として、唐竹は帆船の帆の桟(補強材)に使用されることが分かる。
現在、唐竹の名称はどう呼ばれているだろうか。多良間村と市上野地区では「ヤマダキ(山竹)」、池間系統では「ビュウスダキ(釣り竿竹)」と称している。市下地地区では「ツブクダキ」と呼称している。
与那国島の方言では唐竹は「ンブグダキ(釣り竿竹)」と称しており、「ツブクダキ」は同義の「釣り竿竹」かもしれない。
唐竹を「トウチク」と呼称した場合はマダケ(真竹)でなく「ビゼンナリヒラ」という竹のことである。また真竹をマチクと呼称するのは間違いで、マチクは別種の「麻竹」のことである。
唐竹の方言名称は、地域内でも差異があることが考えられ、方言名は参考にとどめたい。
※参考・引用文献
砂川玄正「近世時代・宮古の杣山(公有林)」『平良市総合博物館紀要』 第8号、2001年。
石垣市史叢書14『富川親方八重山島規模帳』石垣市、2004年)