空港ターミナル40年 空の玄関の歩み/観光客70万人へ
利用客は年間130万人
宮古空港ターミナル株式会社(下地義治社長)が設立40周年を迎える。この間空の玄関口として多くの役割を担ってきたターミナルビル。前史から今日に至るまでの歴史を振り返る。
宮古空港は、1944年に日本海軍中飛行場として完成したが、同年10月10日の「10・10空襲」で飛行機9機が撃破され、飛行場も大きな被害を受けた。
戦後は「USAF(米合衆国空軍)CAT」が空港を管理。当時の名称は「ミヤコジマ・インターナショナル・エアポート」。
1955年7月に、宮古-那覇-石垣間にチャーター方式による民間航空(CAT)が初就航。56年には那覇-宮古-石垣を結ぶ旅客機が定期就航した。
当時は、軍用中型輸送機を転用した40人乗りの双発プロペラ機C46コマンドをチャーターし、米空軍出身の米国人パイロットが操縦桿を握っていたという。
ただ、定期航路と言っても航空機が飛んだのは週2~3便。本格的な定期運航の実現は67年だった。
このとき就航したのが南西航空の「日の丸機」。40人乗りの双発プロペラ機が政府関係者や報道陣を乗せて空港に飛来した。
68年には最初のターミナルビルが完成し、同年6月にYS-11A型機が就航している。このターミナルビルは「花笠空港」が建設される78年まで使用された。
空港を管理する宮古空港ターミナル株式会社は77年に設立された。すぐに花笠空港の建設に着手し、翌年には完成させている。
施設の充実とともに空港利用者は右肩上がりで伸び続けた。83年には滑走路が1500㍍から2000㍍になり、利便性が増した。
89年には東京、92年には大阪直行便が就航し、観光振興に拍車が掛かった。
高まる需要を背景に、90年代に新しいターミナルビル構想が浮上した。94年には協議会が立ち上がり、集中的な議論が行われた。起工は95年、現ターミナル建設工事の始まりだった。
40年の間に那覇-宮古路線は住民の生活路線として定着した。観光客の利用も増え、この路線は「ドル箱路線」とも言われた。2011年にはJTA、ANAの牙城にスカイマークが切り込んだ。値下げ競争が激化した年でもあった。
戦中、戦後の歩みを経て宮古空港を利用する人は年間130万人(2015年旅客搭乗者数)を超えるまでに至った。観光は勢いを維持しており、さらに伸びることが予想される。利用しやすい空港、乗客の安全確保の面で、ターミナル社が果たす役割はますます大きくなりそうだ。
同社は今年、設立40周年記念誌を発刊する。